日記 196 - 200
(196)
息が切れる。足がもつれてうまく走れない。二人が大声でヒカルを罵りながら、追い掛けてくる。
その距離はどんどん縮まって、もう今にも捕らえられそうだ。
以前のヒカルなら、簡単に逃げられただろう。小鹿のように軽やかに、人混みをスイスイ
駆け抜けて行けたのに………
「ナメてんじゃねえぞ!」
肘を掴まれ、思い切り引っ張られた。
「手間かけさせやがって!」
二人がかりで、ヒカルの身体を抱きかかえられた。
「やぁ!イヤだぁ!」
ヒカルは必死で藻掻いたが、それは本当にささやかな抵抗でしかなかった。ヒカルよりずっと身長も高く、体格もいい。そんな男が本気を出せば、ヒカルなど簡単にねじ伏せられるのだ。そのことをヒカルは既に経験し、知っていた。自分の抵抗など何の役にも立たないことを…………。
―――――もう…ダメだ……怖い…!
全身から力が抜け、今にも崩れ落ちそうな身体を男が支える。腕にかかる重みを確かめるように、
一旦ヒカルを揺すり上げ、抱き直した。
ぐったりと顔を伏せるヒカルには、二人がニヤリと目配せをするのは見えなかった。だけど、
二人が自分をどう料理しようかと舌なめずりしている姿は、気配で感じていた。
―――――どうして……?オレは何にもしてない……オレは悪くないのに………
絶望が涙となってあふれ出し、ヒカルの頬を濡らした。
だが、突然、ヒカルを拘束する腕が弛んだ。そのまま意識を手放してしまいそうな自分を
叱咤して、なんとか顔を上げる。
ヒカルの瞳に、ボンヤリと紺色の人影がこちらの方へ来るのが映った。
―――――なに?警備員?
ヒカルは目を眇めた。どうやら、巡回中の警察官らしい。
「オイ…やべえよ……」
「チッ!いいところなのに……!クソッ!」
二人はヒカルを乱暴に突き飛ばすと、慌ててその場を走り去った。
突き飛ばされた反動で、ヒカルはヨロヨロと歩道に手を付いた。
―――――助かった?
その場に座り込んだまま、しばらく立ち上がることが出来なかった。
石畳の上にポタポタと涙の雫が落ちる。蹲っているヒカルをよけるように、人が流れていく。
ヒカルは手の甲で、ゴシゴシと目を擦ると、立ち上がってまた駅へと歩き始めた。
(197)
どうにか電車に乗り込んだ途端、ヒカルの身体がぐらりと揺れた。マズイ。貧血だ。
ドアにもたれ掛かるようにズルズルとへたり込んでしまう。弱っているくせに、暴れたりしたからだろう。それとも、電車に乗って安心したためだろうか。ヒカルは膝を立てて、そこに
顔を埋めた。
「大丈夫か?」
肩を揺さぶられ、億劫そうに目を開けた。また若い男だ。ヒカルは返事をしなかった。肩を
中心にそこからだんだんと冷たくなっていくような錯覚を起こした。
「ここへ座りな。」
その若い男は自分の座っていた座席を指さした。
「………大丈夫です…」
弱々しく首を振るヒカルを「いいから」と、彼は無理矢理座らせた。
ヒカルは形だけ頭を下げ、座席に沈むとすぐに目を閉じた。男はヒカルの前に立って、
少しの間様子を見ていたが、やがて読みかけていた本を再び開いた。
そっと目を開け、前に立つ男を盗み見た。吊革に捕まり、電車に揺られながら、器用にページを
繰っていく。本に夢中なのか、ヒカルが自分を見ていることには気付いていないようだった。
(198)
ヒカルは酷く自分が惨めだった。いつから、こんなに疑い深くなったのだろう。若い男と
いうだけで、全てを一つに括って警戒していた。
―――――でも、怖い………怖くてしょうがないんだ……
若い男が……アキラや伊角が……
どうしても身体が震えるのを止めることが出来ない。外に出るのが怖い。家の中に
閉じこもっていれば、いつか直るというのなら、そうしていたい。
家以外の場所で安らげたのは緒方の腕の中だけだった。そこにいれば安心していられた。
怖いモノ嫌なモノを思い出さずにすんだ。けれど、緒方に突き放されて(実際は違うのだろうが、
自分はそう感じた)、ヒカルにはアキラに会えないつらさだけが残った。
膝の上に置かれた手を熱いモノが濡らした。
アナウンスが到着を告げる。
「あ…降りなきゃ……」
手の甲でゴシゴシと目を擦った。
「ごめんなさい…ありがとうございました…」
俯き加減で小さな声で礼を言うと、青年は「どういたしまして」と破顔した。
ヒカルが席を立った後、彼はまた座席に腰を下ろそうとした。が、降りるヒカルと入れ違いに
乗ってきた老人に気が付くと、すぐに席を譲った。そうして、彼はまた、立ったまま本を
読み始める。
ドアが閉まり、電車が去っていった後もヒカルはそこで彼を見送っていた。きっと、ヒカルが
そうしていたことに気付いてもいなかっただろう。
アキラに会いたい。どうしても会いたい。自分を助けて………救って欲しい。
(199)
駅から、アキラのアパートまでは少し歩かなければならない。ヒカルは心細かった。夜道が
怖いだなんて、女の子じゃあるまいし………とは思うのだが、怖いものは怖い。
さっきみたいに人が多いのも鬱陶しいモノだが、こうまで人通りが少ないと却って
不安になってくる。
しかし、ここで悩んでいても埒が明かない。意を決して歩き始めた。
後ろを気にしながら、早足で歩いた。誰もいないのはずなのに誰かが付いてきている………
そんな錯覚を起こし、何度も後ろを振り返った。
―――――バカ!後ろばっか気にしてるから、遅くなるんだよ……!
ヒカルは自分を叱咤し、ボンヤリとした月明かりが照らす薄暗い道を駆けていった。
自分の中の恐怖と戦い、その不安に押し潰されそうになりながら、漸くアキラのアパートまで
辿り着くことが出来た。二階のアキラの部屋のあかりはまだ点いていない。周囲を気遣いつつ、
窓の下にそっと近寄る。人の気配は感じない。
それはヒカルにたとえようのないほどの失望を与えた。最初の目的だったはずの郵便受けに
ヒカルは近寄ろうともしない。
じっと身動ぎもせずに、そこに立ち続けた。視界が徐々にぼやける。ヒカルは自分が涙を
流していることに暫く気付かなかった。
(200)
「…………………………進藤?」
ヒカルはビクリと振り返った。慌てて涙を拭う。よく知っている少し掠れた穏やかな声。
「どうしたんだ?こんなところで………」
アキラが近づいてくる。ヒカルも彼の方へ走ろうとした。だが、
「いつから待っていたんだい?中で待っていればいいのに………」
と、その一言に足が竦んで動けなくなってしまった。
アキラはヒカルを責めたわけではない。その声音には、いたわりと優しさが十分すぎる
ぐらいに含まれていた。
アキラが近づいてくるのをボンヤリとただ見つめていた。そして、目の前に立った彼の姿に
ヒカルは暫く見とれていた。会いたくて会いたくて仕方がなかった唯一人の人………。
「さあ、中に入ろうか?」
アキラが優しくヒカルを促した。以前と変わらない優しい声。なんだか、胸の中がいっぱいになって、
喉の奥から熱いものがこみ上げてくる。堪えきれなくなって、ヒカルはその場にしゃがみ込んだ。
食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。
驚いたアキラが慌ててヒカルの側に跪いた。
「どうしたんだ?気分が悪いの?早く、家に入ろう!」
ヒカルは激しく首を振った。アキラがいくら家の中に入るように言っても、小さな子供のように
いやいやと首を振り続けた。
「どうしたんだ?そんな風に駄々をこねないでくれよ………」
困ったように自分を宥める彼に、ヒカルは自分の胸の中にずっと使えていたモノ、窒息して
しまいそうなほどに苦しかったモノを吐き出した。
「――――だって……!オレ…鍵…な…くし、ちゃ、ったんだよ……!」
ヒカルは、つっかえ、しゃくり上げながら、やっとそれだけ告げることが出来た。
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