日記 199 - 201


(199)
 駅から、アキラのアパートまでは少し歩かなければならない。ヒカルは心細かった。夜道が
怖いだなんて、女の子じゃあるまいし………とは思うのだが、怖いものは怖い。
 さっきみたいに人が多いのも鬱陶しいモノだが、こうまで人通りが少ないと却って
不安になってくる。
 しかし、ここで悩んでいても埒が明かない。意を決して歩き始めた。

 後ろを気にしながら、早足で歩いた。誰もいないのはずなのに誰かが付いてきている………
そんな錯覚を起こし、何度も後ろを振り返った。
―――――バカ!後ろばっか気にしてるから、遅くなるんだよ……!
ヒカルは自分を叱咤し、ボンヤリとした月明かりが照らす薄暗い道を駆けていった。

 自分の中の恐怖と戦い、その不安に押し潰されそうになりながら、漸くアキラのアパートまで
辿り着くことが出来た。二階のアキラの部屋のあかりはまだ点いていない。周囲を気遣いつつ、
窓の下にそっと近寄る。人の気配は感じない。
 それはヒカルにたとえようのないほどの失望を与えた。最初の目的だったはずの郵便受けに
ヒカルは近寄ろうともしない。
 じっと身動ぎもせずに、そこに立ち続けた。視界が徐々にぼやける。ヒカルは自分が涙を
流していることに暫く気付かなかった。


(200)
 「…………………………進藤?」
ヒカルはビクリと振り返った。慌てて涙を拭う。よく知っている少し掠れた穏やかな声。
「どうしたんだ?こんなところで………」
アキラが近づいてくる。ヒカルも彼の方へ走ろうとした。だが、
「いつから待っていたんだい?中で待っていればいいのに………」
と、その一言に足が竦んで動けなくなってしまった。
 アキラはヒカルを責めたわけではない。その声音には、いたわりと優しさが十分すぎる
ぐらいに含まれていた。

 アキラが近づいてくるのをボンヤリとただ見つめていた。そして、目の前に立った彼の姿に
ヒカルは暫く見とれていた。会いたくて会いたくて仕方がなかった唯一人の人………。
 「さあ、中に入ろうか?」
アキラが優しくヒカルを促した。以前と変わらない優しい声。なんだか、胸の中がいっぱいになって、
喉の奥から熱いものがこみ上げてくる。堪えきれなくなって、ヒカルはその場にしゃがみ込んだ。
食いしばった歯の隙間から嗚咽が漏れる。
 驚いたアキラが慌ててヒカルの側に跪いた。
「どうしたんだ?気分が悪いの?早く、家に入ろう!」
ヒカルは激しく首を振った。アキラがいくら家の中に入るように言っても、小さな子供のように
いやいやと首を振り続けた。
「どうしたんだ?そんな風に駄々をこねないでくれよ………」
困ったように自分を宥める彼に、ヒカルは自分の胸の中にずっと使えていたモノ、窒息して
しまいそうなほどに苦しかったモノを吐き出した。

 「――――だって……!オレ…鍵…な…くし、ちゃ、ったんだよ……!」
ヒカルは、つっかえ、しゃくり上げながら、やっとそれだけ告げることが出来た。


(201)
 アキラは蹲ったまま泣き続けるヒカルを暫く黙って見つめていた。小さくなって、肩を震わせる
彼が痛ましくて可哀想で仕方がなかった。
「……鍵…鍵が……ない…んだよぉ…」
「鍵ならまた作ってあげるよ…」
アキラは一瞬逡巡して、それからヒカルの肩に手を置いた。痩せて、壊れてしまいそうなくらい脆い。
「……買ったばっかしの…ケータイも……なくなっちゃたんだ…」
「今度一緒に買いに行こう……ボクが選んであげるよ……」
「お、お気に入りの、リュックも……」
「誕生日に新しいのをプレゼントするよ。キミの気に入るようなヤツを捜してくるから……」
髪を撫でる。髪の柔らかさだけは、以前と変わらない。
「………リンドウ……リンドウもなくしちゃった……」
「来年、二人で買いに行こう……きっと一番綺麗な花を手に入れるよ……」
ヒカルの肩が、背中が小刻みに揺れる。
「だから、もう中に入ろう…」
 アキラの言葉にヒカルは何度も頷いた。



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