番外編2 冷静と狂気の間 2 - 3
(2)
俊彦の訪問は明らかに迷惑そうだったが、強引に上がりこんで話すことに
した。
「どうしたんだ。昼間もいったけど、お前、ヘンだよ。
こんな時は酒でも飲みながら悩みをブチまけるのが一番だ。いっちまえ
よ。」
部屋に入っても沈黙が続いた。
これまで断わったタメシなどなかったのに、酒を勧めても、
「イヤ、オレはいい」
と断わる。隅で膝をかかえてうずくまったまま、嘉威は動こうとしなかっ
た。
「俺は飲むぜ。」
見回しても、部屋の中に変わったところはなさそうだった。
長い沈黙に耐えられず、俊彦は急ピッチで発泡酒を1本空にした。
「俺じゃダメか。役には立たないか」
そういいながら、新しい缶に手を伸ばした。
突然、ウッという嗚咽が洩れてきた。嘉威は体を丸めて泣いていた。
しばらく気の済むように泣かせた後、俊彦は嘉威のそばにいった。肩に手
を掛けようと思ったが、昼間の姿が目に浮かんで、声をかけるだけに留め
た。
「落ち着いたか」
「オレがバカだったんだ。でも、本因坊ともあろう人があんなことをする
なんて…」
「飲むか」
改めて酒を勧めると、今度は素直にうなずいて口をつけた。
「この味、この味だよ。オレにはこの味があってるんだ。分相応にこの味
で満足してりゃあ、あんなことにはならなかったんだ。」
ポツリポツリと話し始めた内容は、俊彦を驚かせるのに十分だった。
棋院の前でサインを求めた桑原本因坊に連れられて高級料亭にいき、酒を
飲んで前後不覚のところを犯されたというのだ。桑原本因坊――。嘉威の
影響で碁を始めた俊彦でも名前くらいは知っていた。
「だってお前、酒強いじゃないか。そんなに飲まされたのか。」
「ううん。酒、日本酒だったんだけど、あの中に何か入ってたんだと思う。
体が全然きかなくなっちまって…」
話しているうちにまた声がうるんできた。
「ちょっと苦い気がしたんだ。でも、いつもの安酒と違うから、オレ、舞
い上がっちまって…」
「今から思うと、あれはヤメロって合図だったのかもしれないな。本因坊
の前に進藤って若手にサインをもらってたんだけど、オレが本因坊と話し
てる時にしきりに目をパチパチさせてて…。オレ、本因坊の前で緊張して
るのかと思ったんだけど…」
重荷を解き放って、嘉威は少しずつ平静さを取り戻してきたようだった。
一方、俊彦はふつふつと怒りがこみ上げてきた。
――本因坊ともあろうものが。しかも、ジジイだろう。やっていいことと
悪いことがある。そいつに謝らせずにおくものか。でも、本因坊なん
て、いったいどこにいったら会えるんだ。
ふと頭をあげると、机の上に手付かずで放り出されていた「週刊碁」が目
に入った。この中になにか書いてあるかもしれない。手にとって裏側にな
っていた1面をみると、『粘る桑原』なんと当の桑原の本因坊戦の勝利を
伝えている。俊彦は猿のようなその老人の顔を脳裏に刻み込んだ。めくっ
ていくと今週の手合いの欄に本因坊戦最終局があさって開始とある。だが、
会場は東北だ。どうする。この問題に一刻も早くケリをつけてやりたい。
一瞬悩んだが、いい考えが頭に浮かんだ。行こう、と俊彦は心に決めた。「週
刊碁」は借りて帰ることにした。
部屋を出る時、嘉威は呆けたように缶を手にしていた。
「でも、痛いだけじゃなかった。よかったんだ。」
背中から聞こえたつぶやきに思わず振り向いた。嘉威の暗い瞳は、俊彦を
ゾクリとさせた。
(3)
――そうだ、今なら青春18切符がある。夜行で行けば明日のうちには会
場のホテルにつける。
簡単な旅支度をディバッグにつめ、明日のコンビニのバイトは交代を頼ん
だ。夜行列車・ムーンライトえちごに乗るため、俊彦は駅へ急いだ。
怒りにまかせて列車に飛び乗ったものの、なんといって謝らせたらいいの
か、俊彦は頭を悩ませていた。
――嘉威の前で土下座をするとでも約束させようか。それとも慰謝料を請
求してやろうか。いや、それじゃあまるで恐喝みたいだ。週刊誌にい
うぜとでも言えば青くなって詫びを入れてくるかもしれない。でも、
ホテルにいけば本因坊に会えるんだろうか。だいたい勢いでこうして
出てきたが、これでよかったのか。嘉威は早く忘れたいだけかもしれ
ない。じゃ、謝ってほしくないのか。それはないよな。
嘉威の部屋で発泡酒を飲んでいたというのに眠気は訪れず、どうどう巡り
をする俊彦の頭はますます冴えてくるばかりだった。早朝、夜行列車は、
ほとんど一睡もできないままの俊彦を乗せて終点の村上に着いた。本因坊
戦の開かれる町はそこからさらに鈍行で半日近くかかる。
ようやく目指す駅についた頃には昼はとうに過ぎていた。耐え難い空腹が
迫り、目の前のラーメン屋に飛び込んだ。
「チャーハン、餃子」
出てきたものを野犬のようにガツガツと腹に収めた。考えると昨晩からま
ともなものを食べていない。ようやく人心地がついたところで、ラーメン
を追加した。
入り口の戸がガラッと開くと前髪がヤケに明るい少年が入ってきてラーメ
ンを注文した。カウンターの隣に座った少年は、ディバッグに差した「週
刊碁」を取りだしバサッと広げて読み始めた。
――こんなところで「週刊碁」を見るなんて…
ちょっと驚いて見ていると、少年もその視線に気づいて問いかけるような
目をする。俊彦は脇にある自分のディバッグに差した「週刊碁」を引き抜
いた。
「お兄さんも碁打つんだ。」
少年はニコッと笑って話しかけてきた。
「まだ始めたばっかであんまうまくないけどな。」
「オレもそうだよ。まだそんなに強くない。でもさ、碁って面白いよね。
碁盤は宇宙なんだよ。そこにさ、石をひとつひとつ置いていくと星をひと
つひとつ増やすみたいだろ。どんどん宇宙を創ってくんだ。オレは神様に
なるんだよ、碁盤の上で。」
ビー玉のような目をキラキラさせて話す少年に、俊彦は思わず引き込まれ
ていく。ラーメンを食べると少年は快活な挨拶を残し去っていった。
――俺はジジイと対決するんだよな。
気合を入れて俊彦も席をたった。
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