sai包囲網・中一の夏編 2 - 4


(2)
 いらっしゃいませの声に迎えられて、明るく清潔な店内へと足を踏み
入れる。日中とはいえ、夏休みのせいか客も思ったより多い。ちらりと
進藤の位置を確認すると、手早く受け付けを済ませ、彼を後ろから見る
ことのできる場所へと陣取った。
 幸いなことにボクは視力がいい方だ。少し視線をずらすだけで、進藤
の開いてる画面を見ることができる。そこには期待に反し、色とりどり
のイラストのようなものが映し出されていた。どう間違っても白と黒の
石が並ぶ碁盤には見えない。
 やはりボクの勘違いだったのだろうか。それでも疑念を拭いきれない
まま、ワールド囲碁ネットのサイト入り、対局待ちのリストを呼び出す。
そこにはまだ『sai』の文字はなかった。
 saiと打ち合ったときの充実感と陶酔感。思い出すだけでも、身体
が震えて来る。それは、強い相手と対局することへの恐怖と、そして、
それを越えるほどの愉悦からだ。最初から数えて二回。進藤と打ったと
きにも感じたもの。もう一度、もう一度だけでもいいから、あの感覚を
味わうことができたら・・・。

 ふと、左手で弄んでいたグラスを、進藤が傍らに置く。ぐっと背を反
らせて伸びをしたかと思うと、マウスを掴み左上の矢印をクリックした。
前に見ていたページに戻ってる?次に現れた画面に、ボクは思わず声を
上げそうになった。
 それは見慣れた、ネット上の架空の碁盤だった。一度、ログアウトし
てしまったのか、進藤のクリックに合わせてトップページが表示され、
ぎこちなくキーを叩く音がして、画面が切り替わった。ハッとして、目
の前にあるディスプレイに視線を戻すと、そこに『sai』の三文字が
現れた。
 まさか、でも、やっぱり・・・いろんな感情が入り交じる中、ボクは
息を殺して、進藤が動くのを待った。


(3)
 ほどなくして、進藤越しに碁盤が映し出されるのが見えた。saiを
目で追えば、表示が対局中に変わっている。アマチュア囲碁大会でも、
各国の選手が話題にしていたほどだ。saiなら自分から対局相手を探
すまでもないはずだった。
 迷わず観戦を選ぶと、既にすごい数の観戦者が訪れていた。相手が黒
番、saiが白番。最初の一手が打たれたとほぼ同時に、進藤の手元が
動く。カチリ、マウスの立てる音が聞こえて来るような気がした。それ
だけボクは進藤の動きに神経を集中していた。画面に現れる白の一手。
それに続く黒、そして、白・・・。
 白石が打ち込まれるタイミングは、進藤のマウスの動きにぴったりと
一致していた。だけど、これだけでは、進藤があのsaiだと確信でき
ない。たまたま進藤のハンドルネームが同じsaiなのかも知れない。
もっと悪意を持って言うなら、彼がsaiの名を騙っている可能性だっ
てある。それは、対局を見ていれば、自ずと分かるはずだ。
 持ち時間が短いせいもあるのだろう。ほとんどノータイムで打ち込ま
れるsaiの手の早さも手伝って、呆気ないほど簡単に相手が投了した。
その後も、saiの対局を追ったが、ほとんどが中押しで勝ちを収めた。
 その見事なまでの打ち筋は、あのsaiに間違いなかった。
 自分の立てる心臓の音が、周り中に響いているような錯覚。気を静め
ようとしても、沸き上がってくる興奮を抑えきれない。
 終局したばかりの棋譜を頭に入れて、ボクはそっと背後から進藤に近
づいた。大きく表示された碁盤には、先程まで見ていたものと一石も違
わない同じ終局図。進藤が観戦者の一人ではなく、対局者であることを
確認して、声をかけようとしたとき、進藤がえっ?と声を上げて、ボク
が立っているのとは逆の右に視線をやり、それから、慌ててこちらを振
り返った。
「と、塔矢!」
 その進藤の狼狽振りに、ボクは自分の口元に歪んだ笑みを浮べた。


(4)
 進藤と初めて逢ったその日から、彼の言動の一つ一つにみっともない
ほど心を揺さぶられ、今まで欠片も見えなかった激情が自分の中にある
ことに気がついた。彼の数多(あまた)の棋士への冒涜に、生まれて初
めて他人を憎み、見せつけられた優美なまでの一局に心を奪われた。
 対局を拒否されたときは哀しみを、念願叶ってやっと相対したときは
喜びを、そして、期待に反した稚拙な手を返されたときは失望を。ボク
の中にあるさまざまな感情を引き出したのは、いつでも彼だった。
 その彼が、自分の出現に今までにないほどの動揺を返して来たことに、
厭らしいまでの快感を覚える。これも、初めて知った自分の一面だ。
「ビ…ビックリするじゃね〜か!なんだよっ」
 語気こそは強いものの、さり気なく、実際は少しもさり気なくはなか
ったが、立ち上がってボクの視界からディスプレイを遮ろうとする進藤
の慌て振りがおかしいくらいだ。
「友達?」
 客同士のトラブルとでも思ったのか、従業員の女性がやって来た。
「ともだち……かなァ」
 その女性とはかなり面識があるのだろう、進藤の口調は砕けたものだ。
もっもと、彼は誰に対してもそんなところがあるようにも思えるけれど。
「ゴメン。ちょっと外、出てくる」
 余計なことでも言われると思ったのか、進藤はボクの背を押すように
して店の外へと押し出した。二人きりで話をしたいというのなら、ボク
にとっても好都合だ。
 ビルの壁を背にして、突然現れたボクに恨み言を言う。
「何。何か用?」
 その一言だけで、急に黙り込む。今、彼がその小さな頭の中で何を考
えているか、手に取るように分かる気がした。



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