Shangri-La第2章 2 - 8
(2)
アキラは言葉を失ったまま、ただその赤さだけを見ていた。
昨晩の出来事がまざまざと甦った。
―――そう、そんなつもりじゃ、なかったんだ…
(3)
最近のヒカルはとみに忙しくしていて(母親の治療代稼ぎとアキラは聞いていた)
アキラは碁会所に居る時間が長くなっており、必然的に緒方と打つ機会は増えていた。
その日は長考が多く、少し時間がかかってしまい、
市河を先に帰して二人で戸締まりをした。
「アキラ君、食事でもどうだ?どうせ家に一人なんだろう?」
という緒方の言葉に誘われ、アキラは遠慮なく食事につきあった。
緒方が家まで送ると言ったが、アキラは海が見たいとドライブをせがんだ。
理由は何でも良かった。ただ、一人になりたくなかった。
このところ、ヒカルとは電話では毎日のように話したが、
直接顔を合わせることは手合日以外では全くなくなっていた。
ヒカルにはヒカルの事情がある。仕方ないのだと分かっていたつもりだったが
それも期間が長くなるにつけ、どこか納得しきれないものになっていた。
やり場のない気持ちがアキラの中で渦を巻き、出口を求めて荒れ狂う。
そして、アキラ自身の外面の良さが、その嵐に拍車をかけた。
外で穏やかに見せれば見せるほど、激情は増幅されていく。
自宅で一人、迎える夜がイヤだった。宵闇は、感情の制御を失わせる。
時に、雨戸を閉め切り布団をかぶって金切り声をあげ続け
その行為で辛うじて『何か』を吐きだしていたが、全てを出し切ることはできず
本当にどうしようもない『何か』がアキラの中に鬱積していた。
(4)
緒方とは何も話さなかった。ただ二人黙って暗い海を見ていた。
隣に誰かがいる。それだけでアキラには十分だった。
だから、帰ろうという緒方の言葉にどう反応していいか分からなかった。
ならば場所を変えよう、と促され、結局アキラは緒方の部屋に上がった。
緒方が出してきた、過去に飲みつけたミネラルウォーターのボトルを
アキラは黙って受け取った。
「緒方さん、ちょっと肩を貸して貰えますか」
返事を待たずにアキラは緒方の隣に座り、ボトルの蓋を開けて
半分くらいを勢い良く喉奥に流し込んでから、ゆっくり緒方に凭れ掛かった。
緒方の膝に手を置くと、ほどなくして緒方の手がアキラの頭に乗せられた。
その手の温かさと重みに安心して、アキラは目を閉じた。
(5)
―――誘われている。
緒方は、はっきりそう感じていた。
海が見たいと言われて何となくそう思った。
部屋へ連れてきて、それが確信へと変わった。
緒方はそっとアキラの頭に手を乗せた。
安全かつ確実にアキラを落ち着ける方法は、これしか知らない。
最近のヒカルの噂は聞いている。
もともと、他人に関する噂とか情報の類には興味が薄いこともあって、
かなり疎いと自覚していた。そんな緒方ですら耳に入る位だから、
かなりメジャーな話に違いない。
大方、ヒカルはアキラを放っておいてそちらに夢中になっているのだろう。
そしてアキラはアキラで、空いた身体を持て余している…
とまぁ、そんな所だろうか。
(6)
こんな不安定なアキラに既視感を覚える。
初めて緒方の部屋に泊めた頃だ。あの時も、酷く混乱していた。
色事を何も知らない子供時代でさえ、
その思い悩み心乱れる様子は、奇妙な艶めかしさを持っていたのに
意図したものか、あるいは無意識なのか、
誘いをかける今のアキラの様子と言ったら、全くどうだろう?
気がつくとアキラは寝息を立て始めていた。
今のアキラは危険な匂いがする。
できれば帰してしまいたいが、一旦起こしてしまえば
今日の様子では、帰らないと言い出すに違いない。
かといって起こさずに連れ帰ろうにも、小さな子供ならともかく
いかんせんこの体躯では、もうそれも難しい。
とりあえず眠らせられた事だし、このまま朝まで寝かせておいて
明日出掛ける時に、家まで送ればいいだろう。
そう考えて、アキラの頭の下から緒方がそっと身体を外そうとした所で
アキラが身じろいだ。
(7)
「ん……?…おが…た、さん…」
「あぁ、起こしてしまったか。
アキラ君、今日は泊まっていっていいから
風呂に入ってベッドで寝なさい。風邪引くぞ」
「あ、はい……」
アキラはのっそりと身体を起こした。少しぼうっとしているようだった。
緒方はあえて事務的に続けた。
「下着の替えは、買い置きを出しておくから使いなさい。それから…」
「いえ、洗濯機だけ、貸して下さい…。
どうせこの部屋で、下着つけて寝たことなんて、ないし…」
真実とはいえあまりの言葉に緒方が言葉を失っている間に
アキラはゆっくり立ち上がって、そして不意に振り返った。
「バスローブ、使っていいですか…?」
微妙にうろたえている緒方には短く、あぁ、とだけ返すのがやっとだったが、
アキラはそれを聞くと、礼も言わずにバスルームへ向かった。
(8)
アキラの水音が始まるとすぐ、緒方は寝室へ向かった。
シーツは今朝替えたばかりだから問題ない。
ベッドの上にアキラのための下着とパジャマを用意し
毛布を持ってリビングへ戻った。
――にしても何故、アキラが目を覚ましたときに
『家まで送る』と言わなかったのだろう?
今さらながら少し後悔して、テーブルに残していた缶ビールの残りを呷った。
アキラがバスルームを出ると、ベッドを使うよう言い残して
緒方はバスルームへ向かったが、シャワーを浴びた緒方が
寝室を覗くと、アキラの姿はなかった。
リビングにも見当たらず、書斎を開けると、水槽の前で
背中を椅子の背に深く預けてぼんやりとしているアキラがいた。
「アキラ君、まだ起きていたのか。疲れてるんじゃないのか?」
アキラは空を見つめたまま、静かに口を開いた。
「緒方さん…ソファで寝るんですか」
ソファに用意してあった毛布を見たのだろう。
気にする必要はない、と答えたが、アキラは少しの間、黙っていた。
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