落日 20 - 26
(20)
目を落とすと、ヒカルが掛け布にくるまってすうすうと寝息を立てている。
震える手を伸ばしてそっと髪を梳くと、
「んん……」
と、小さな声を漏らして、布をきゅっと握り締めて横向きに丸くなった。頑是無い無垢な幼子の
ようなその仕草に、胸が痛む。
絶対に違う。あのような夢に、白昼夢に、何の意味もない。あれは俺の願望などではない。
俺はおまえを傷つけたりしない。絶対にそんな事はしない。
おまえは俺が守るから、守ってやるから、だから。
彼の顔を見つめているうちに、ぽたりとしずくが一粒、彼の頬に落ちた。
慌てて覗き込んでいた顔を離し、目元を拭う。
そして、ぶるりと肌寒さに身を震わせた。
夜闇が迫っている。秋の夜はそろそろ薄ら寒い。火桶に火をもらってこようと伊角が部屋を出よう
とした時、足が何かを蹴転がした。
「あ……」
それは和谷の持ってきた手籠だった。
布からこぼれたかけらを拾い上げて、薄闇の中で目元に近づけ、くん、と匂いをかぐ。
糖蜜の塊――いや、これは違う。
六角の格子のそのかけらを口に含むと、しゃり、と口の中でこぼれ、馥郁たる花の香りと蜜の味
が口内に広がった。
甘い。この珍しい糖菓子をどのような苦労をして手に入れ、そしてどのような弾む気持ちでここに
持ってきたのか。彼の気持ちが手にとるようにわかる気がした。
そして彼が何を目にして、そして去って行ったのか。
彼の心を思うと、まるで己の事のように胸が痛む。
けれど。
それでも譲れない事はある。
譲りはしない。
(21)
そっと元通りに籠に詰め直し、先程のように蹴倒される事のないように、部屋の隅に置かれた御台
の上に籠ごと置く。
明日になって彼が目覚めたら食べさせてやろう。きっと喜ぶだろう。「甘い」「美味しい」といって笑っ
てくれるだろう。
そして自分も今度は何か彼を喜ばせるようなものを持ってこよう。
あどけない寝顔に思わず頬が緩む。こんなに愛しいものがいただろうか。こんなに誰かを愛しいと
思った事があっただろうか。彼の顔を見つめ、そっと髪をなでていると、眠っているはずの彼の手が
伸びて自分の手を捕らえる。
どうした、と呼びかけようとすると、彼がぼんやりと目を開けてこちらを見た。
その視線が何かを探すように宙を彷徨う。虚ろな眼差しに胸がきりきりと痛むのを感じる。衝動の
ままに彼の身体を抱き寄せると、ああ、と、彼が胸の中で小さな息を漏らす。彼の目からこぼれる
涙が胸を濡らす。ぎゅっと細い身体を抱きしめてやると、震える身体は小さく誰かの名を呼ぶ。
目をきつくつぶり、奥歯を噛み締めながら、それでも彼を抱く腕に力を込めた。
いいんだ。それでもいい。たとえ今は他の男の名を呼んでいようとも。
そう、彼はもういないのだから。彼がこの少年を守ってやる事はもうできないのだから。
だから。
だから、と、伊角は自分に言い聞かせるように言う。
「何も、おまえは何も思い煩らう事はない。俺が守ってやる。
誰にも、おまえを傷つけさせたりしない。
おまえを守れるのは俺だ。俺だけだ。だから、」
だから、他の男になどその身体を預けるな。
他の男におまえを抱かせるな。
おまえは俺のものだ。俺だけのものだ。
(22)
半ばまだ眠りの中にいるようなぼんやりとした意識の中に届いた言葉が、混乱を呼んだ。
「守る」?
誰が、誰を、守るのだ?
よく似た言葉を前に聞いた事がある。
「俺がおまえの事は守ってやるから、ずっと一緒にいてやるからさ。」
そう言ったのは誰だった?
「だから誰かに苛められたら真っ先に俺に会いに来いよ。」
誰に向かって言った言葉だった?
そして自分は、今ここにいる自分は、一体何物だ?
「誰にも、おまえを傷つけさせたりしない。おまえを守れるのは俺だ。」
次いで聞こえた言葉に頭を振る。
なんだ、それは。
そんなもの、要らない。
守ってなんか欲しくない。
守りたかったのは自分だ。自分の方だ。
彼を守れなかった自分を、誰がどうやって守るって?
そんなものは要らない。庇護など必要ない。
傷つく事など恐れていない。傷が癒える事など望まない。
守ってやれなかった、大事なひと。
守るどころか、彼がどのような目にあって、どのような思いで自分を訪ねてきてくれたのか、気付き
もしなかった。
あの時俺は嬉しかった。幸せだった。
佐為が俺に会いに来てくれて、俺を頼ってくれて。そして優しくしてくれて。初めて俺を抱きしめて
くれて、俺を愛してくれて。
俺は幸せだった。
同じ時に佐為が、どんな思いをしていたかも知らずに。
(23)
辛そうな目をしていた。
どうしてそんな顔をするのだろうと思っていた。
内裏で何か嫌な事があったのか。貴族どもの妬み嫉みから嫌がらせでも受けたのか。
そんな風に軽く考えていた。
「苛められたら俺の所に来いよ。慰めてやるから。泣きたかったら頭撫でてやるから。」
そんな事を言った。
でもそんな簡単な事じゃなかったんだ。
俺は何も知らなかった。
政治というものがどんなものなのか。
雅できらびやかに見えた宮中にどんな闇が渦巻いていたのか。
妬みと欲が、羨望と憎悪が入り混じった時、ひとはどれ程まで醜く汚くなれるものなのか。
どうして、どうしてだ、佐為。
なぜ一言、言ってくれなかった。
なぜ、俺には何も言わずに、俺を置いてひとり逝ってしまったんだ。
そんなに俺は頼りにならなかったのか。
俺は何も知らなくて、俺は馬鹿で無力な子供だった。何の力も持ってなかった。
だから佐為は何も言わなかった。何も言わずにひとりでいってしまった。
知っていたらどうしたろう。
わかっていたら引き止められただろうか。
あの時俺がちゃんとわかっていたら。
そうしたら何かできただろうか。何か言えただろうか。
どうしてももう都にはいられないと言うのなら、それなら二人でどこかに行こう。
そんな風に言えただろうか。
(24)
一緒に逃げよう。
都なんて、貴族なんて、どうでもいいじゃないか。
おまえには碁があればいいし、俺にはおまえがいればいい。
おまえは碁を打つ以外は何にもできない奴だけど、俺が魚をとったり、畑を耕したりするから、それ
で何とかなるだろう。俺の碁の腕じゃおまえには物足りないかもしれないけど。
そうだ。あいつがいいって言えば、賀茂も一緒に連れてこう。そうしたらおまえはアイツと打ってられ
るし、それに賀茂がいたら怖いのものなんてないさ。盗賊やひとを襲う獣は俺の剣でぶった切って
やればいいし、妖怪や鬼が出たら、賀茂が祓ってくれる。
おまえがつまんないズルをしたなんて言う奴なんか、どうでもいいじゃないか。そんな奴は放って
おけばいい。おまえはそんな事する奴じゃないって、俺は知ってるから。だから、おまえを責める奴
らなんて、おまえをわかってない帝なんて、都なんて、こっちから捨ててやれ。
捨ててしまえ。そして一緒に都を出よう。
俺とおまえと二人なら大丈夫だ。
二人じゃ心細かったら賀茂も誘ってみよう。
(25)
「ふふ…そうですね。」
そうだろう?
「近衛が言うと、本当に出来そうな気がします。」
気がする、じゃなくてさ。ほんとにすれば良いんだよ。
「連れて行ってくれるのですか?」
ああ、連れてってやるとも。
「でも……本当に大丈夫でしょうか?」
大丈夫さ。
「……近衛は……怖くはないのですか?」
何が?こら、俺の剣の腕を疑うのか?あん時よりもずっと腕を上げたんだぜ。
怖いものなんか何もないさ。
「いつの間に、そんなに頼もしく成長したんでしょう。」
当たり前さ。俺だっていつまでも子供じゃないんだから。さ、行こう、佐為。
「ああ、近衛、」
な、なんだよ…佐為……
「大好きですよ、ヒカル。本当に、私はあなたのことが…」
うん……俺も、俺も佐為が大好きだ。
「大好きです。私にとって一番大切な人です。ヒカル。だから……」
佐為?……佐為、…どうしたんだ……?
(26)
「だから、ヒカル……」
それで夢は途切れてしまった。
目を開ける前から自分が泣いている事に気付いていた。
だから、と彼は続けて何を言いたかったのだろう。
夢ならば、ずっと夢見ていたかった。
醒めてしまいたくなかった。
ずっとあのまま夢を見続けていたかった。
それでもやはり夢は夢に過ぎず、目を覚ませば傍らに彼の姿は無く、彼があのように微笑むのを
見ることはもうできない。
彼はもういない。どこにもいない。
目覚めてしまえば現実は容赦なくヒカルに事実を思い知らせ、ヒカルの頬を涙が一筋流れ落ちる。
――佐為。
夢に見た幸せそうな微笑みを思い出そうと目を閉じ、抱きしめた広い胸を思って手を伸ばす。
けれど両の手は虚空を彷徨い、目の裏に浮かんだのは夢の中の優しい笑顔でなく、最期に見た、
白い静かな面。もう決して目を開けることの無い、冷たく冷えた白い面。
それでも彼の口元には僅かに笑みが浮かんでいるように思えた。まるで、ほんのひと時、眠りに
ついているかのようだった。声をかければ目を覚ますのではないかと思われるほどだった。
水は冷たかっただろうに。水の中は苦しかっただろうに。
俺は何もしてやれなかったのに。
なのにどうしてそんな風に笑ってるんだ。
どうして最後に俺に逢いに来たんだ。
守ってやるなどと大きな口を叩きながら何もできなかった。何も知らなかった。
おまえは俺に何を望んでいた?どうして欲しかった?俺はどうしたらよかったんだ?
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