日記 202 - 204


(202)
 ヒカルは涙を止めようと何度も息を呑み込んだ。どんなに努力しても涙は止まらない。
「進藤、ガマンしなくていいから……」
 ピンと張りつめていた弦が急に切れてしまったようだ。涙が後からいくらでも溢れてくる。
ずっとガマンしていたこと…アキラに会いたかったこと…話をしたかったこと…許されたかったこと…
 だけど、全てを話したわけではない。それはまだヒカルには辛すぎる。
「落ち着いて…ね?…コレを飲んで…」
アキラがホットミルクをヒカルのために入れてくれた。それを手に乗せると、そこからじんわりと
温かさが広がっていく。一口すすった。甘くて…少し切ない味がする。

 「進藤、食事した?何か買ってこようか?」
「ううん…これでいい……」
ヒカルは、もう一口、ミルクを飲んだ。お腹は空いていない。あまり食べられないのだ。でも、
餓えているという自覚はなかった。本当に餓えているのは別のところだった。その餓えを
今少しずつ満たしている。ヒカルは胸が温かくなっていくのを感じていた。

 徐々に、気持ちが落ち着いていく。それでも頬を伝う涙は、なかなか途切れなかった。
「………………塔矢……オレは悪くないよね……?」
「…………悪くないよ…」
『何が?』とも訊かず、アキラはすぐに答えてくれた。
「ホントにそう思う?ホントにオレは悪くない?」
「悪くないよ。進藤は悪くない。」
 アキラは少し、離れたところにいて、ヒカルの方へ近づこうとはしなかった。いや、もしかしたら、
距離を置こうとしているのは自分の方かもしれない。ちょうど二人分の空間がヒカル達の
間に横たわっている。
 手が届きそうで届かないギリギリの距離。アキラは何も言わない。ヒカルが黙ってしまうと、
沈黙だけがその場を支配する。だが、それを苦痛だとは思わない。アキラの側にいられるだけで
嬉しかった。


(203)
 アキラはヒカルに触れるのが怖かった。また、怯えさせてしまうのではないかと考えただけで、
身を切られるほど辛くて、手が止まってしまう。さっきは逃げなかったが、今度も逃げないとは
限らない。いや、必ず逃げる。なぜなら、アキラは、自分の中に先程のヒカルへの純粋な
同情や愛情とはまったく違う衝動が突き上げるのを感じていたからだ。
 ヒカルが近くにいればいるほど、アキラは慎重にならざるを得なかった。数週間前とまるで
変わってしまったヒカルの姿に胸を痛めながらも、身体の奥が熾火のようにくすぶっている。
繊細な首筋や、そこにかかる後れ毛、伏し目がちな目元に漂う憂いがアキラを惹き付け、
戸惑わせた。そうだ。ヒカルは確かに変わった。外見の変化だけではない。彼の内側が確実に
以前と違う。伊角が同じような感想を抱いたこと…そして、緒方がそんなヒカルを神経質なほど
危ぶんでいたことも、アキラは知らなかったが、今の彼は必要以上に周りを刺激しているように
見えて不安になる。

 自分は健康的でよく笑うヒカルを愛おしく思っていた。若葉のように生気に満ちあふれた
瑞々しい肌、そしてそれを彩る初夏の木漏れ日のようにキラキラ輝く瞳やお陽さまの様な髪の香を
間近に感じるだけで幸せになれた。それは常にアキラの中を突き上げてくる激しい欲望と
背中合わせではあったけれど、抱き合っているとお互い心が満たされた。
 それなのに、こんなにも弱っているヒカルを痛ましく思いながらも欲情するなんて………
あの細い腰を押さえつけ、欲望のまま突き上げたいだなんて…………全身を嘗めるように
浸食していく暗い情欲を絶対に知られてはならない。もし、今自分がどのような目で見られて
いるかをヒカルが知ったら、もう二度と自分の元には帰ってこない。

 アキラはヒカルから目を逸らそうとした。見なければ、やがて鎮まるはずだ。だが、ヒカルの
物憂げな横顔からどうしても目を離すことが出来なかった。


(204)
 「塔矢……オレそろそろ帰るよ…」
突然訪ねてきてゴメン………と、ヒカルは消えそうな笑顔をアキラに向けた。
 どうしようもないぐらい愛しさが募る。
「ま………待って、進藤!」
身支度を調えるヒカルの腕に手を伸ばし掛け、慌てて引っ込めた。
 ヒカルはアキラを黙って見つめている。今の行動はヒカルの目にはどう映っただろう…
「頼む…………帰らないで……ここにいて……」
「………でも…遅くなるとお母さんが心配するし……オレ……」
「泊まって欲しいんだ………側にいたい……」
 その言葉はヒカルを動揺させた。急にソワソワと落ち着かなくなり、視線があちこち彷徨い始めた。
「でも…でも…」
「お母さんにはボクがお願いするから…頼むよ………」
 ヒカルは、じっと目を閉じて考え込んでいた。アキラの言葉を反芻するように口元が微かに
動いていた。
 実際、自分でも何を言い出すのかと戸惑っていた。ヒカルをこの部屋に泊めて、何もせずに
いる自信なんてまるでない。そして、そんなことをすれば二人の関係は終わってしまうことも
よくわかっていた。
――――――それでも側にいたい…離れたくない…
 アキラは、ヒカルの唇が返事を紡ぐのを待った。ヒカルは俯いて、膝に置いた手をギュッと
握り締めている。彼の葛藤がこちらにも伝わってきて、胸が苦しい。

 「…………いいよ…」
ヒカルが囁くような声で返してきた。



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