日記 206 - 210
(206)
いつもしていたように、脱衣所の備え付けの棚から、タオルを取り出す。薄いペールイエローの
タオルとそれとお揃いのバスタオル。コレはヒカル専用だ。それから、ヒカルのパジャマと下着。
急に泊まったりすることが多いヒカルのために、どちらもアキラが気を利かせて用意して
くれたものだ。
家で使っているのとは別のメーカーのボディーソープ。少し掌にとって、匂いを嗅いでみる。
「………塔矢の匂いだ……」
もっとその香に包まれたい。ヒカルはムキになって、それを目一杯スポンジで泡立てて、
身体中に擦りつける。ふんわりと優しい香が浴室いっぱいに広がった。
たったこれだけのことでヒカルは簡単に幸せになれる。
―――――塔矢とだったら、大丈夫かもしれない………
ふわふわ柔らかいバスタオルはヒカルを優しく包んでくれたし、糊のよく効いたサッカー地の
パジャマは気持ちがよかった。
それなのに、部屋の前まで来ると急に気持ちが怖じ気づいて、ドアを開ける手が震えた。
ヒカルは深呼吸して、ノブに手をかけた。カチリ―――と、音がした。そのままゆっくりドアを
押した。
(207)
部屋の中にはいると、アキラはちょうどベッドのシーツを替えているところだった。夏らしい
薄いブルーのシーツの皺を綺麗に伸ばし、ベッドのマットレスの下に押し込んでいく。
『やっぱり、しなきゃダメなのかな………』
少しやるせない気持ちになって、ヒカルは俯いた。
だが、ふと視線を落とした先に、マットレスにタオルケットを掛けただけの簡素な床が
設えられているのを見つけた。
ベッドメイクをし終わって、漸くヒカルに気付いたアキラが、振り返ってにっこり笑う。
「進藤、出てたのか?」
「………………うん……」
「進藤は、ベッドで寝て。ボクはこっちで寝るから………」
アキラは足下を指さした。
ヒカルは黙ってアキラを見つめた。
――――――もしかしたら、塔矢は知っているのかもしれない………
それは、今日、ここに来たときからずっと感じていたことだった。今日のアキラはいつもと
は違う。
アキラは終始穏やかで、いつもの強引ともとれるような激情をぶつけては来なかった。
「………………………いいの?」
ここにいてもいいの?セックス出来なくてもいいの?それでも、側にいていいの?
「いいよ。進藤はお客様だからね。」
アキラは笑って答えた。ヒカルの言葉をアキラがどう捉えたのかはわからない。本当に
そのままの意味にとったのか、それともわかっていてワザとはぐらかして答えたのか………。
「先に寝てて。ボクもシャワー浴びてくるから。」
おやすみ―――――と、一言残してアキラは部屋を出て行った。
(208)
アキラが戻って来たとき、ヒカルはもう眠っていた。その顔色があまりにも白く、静かだったので、
慌てて駆け寄り、ヒカルの顔を覗き込んだ。
小さな寝息が微かに聞こえて、アキラはホッと安堵の息を吐いた。額に触れ、熱を測る。
「………少し、熱いかな?」
ヒカルの体調がよくないことを知っていたのに、無理矢理引き留めてしまった。そのことも
あって、アキラは必要以上に過敏になっていた。
「寝てるときしか触れないんだな…………」
髪を梳くと少し湿り気を残した髪が、さらさらと指の隙間から零れていく。
肉の落ちた頬に触れると、ヒカルは「ン……」と、小さく身動ぎした。が、目を覚ます気配はない。
ヒカルの中に抗えない危険な艶麗さを感じていたが、それでも寝顔は以前のまま、あどけなかった。
ずっと寝顔を見ていたかったが、明日のこともあるし、そろそろ自分も眠らなければいけない。
「おやすみ…」
ヒカルの額にそっと唇を落とす。瞼が微かに震えた。
ベッドからそっと離れて、マットレスに横たわった。
(209)
横になったものの、すぐ側にヒカルが眠っているのかと思うと、眠れるものではなかった。
耳を澄ますと、柔らかい寝息や、微かな衣擦れの音が聞こえてくる。
―――――手を伸ばせば、彼に届くのに………
アキラは、ベッドの方に背中を向けて、無理矢理目を閉じた。
ウトウトしかけたとき、ベッドで人が蠢く気配がして、アキラはそちらに意識を向けた。
ヒカルがベッドから降りてアキラの傍らに佇んでいる。目を開ければ、彼が逃げてしまうような
気がして、アキラは目を閉じたまま息を殺した。ヒカルは、アキラの枕元に跪いて、自分の
顔をじっと見つめている。
ヒカルの繊細な指が自分の髪にそっと触れた。愛おしげに撫でる指先が、髪から、額、頬へと
移っていく。ヒカルは確かめるように、アキラの顔の上に指を滑らせた。暫くそうしていたが、
彼は小さく息を吐くと、またベッドへと戻っていった。
ヒカルは一晩のうちにそれを何度も繰り返した。アキラに触れてはベッドに戻り、そして
また自分の枕元に跪いた。
自分がどこにいるのかを確認するために……………アキラがそこにいるのを確かめるか
のように…………
ヒカルは、繰り返し繰り返し、まるでビデオを巻き戻すかのように、同じ動作をなぞっていた。
そして漸く安心したのか、ヒカルは今度こそ本当に眠ったようだった。安らかな寝息を
聞き届けてから、アキラも眠った。
(210)
目を覚ましたとき、アキラはもう身支度を調え、出かけようとしていた。アキラが自分に
気が付いて、笑みを投げてきた。
「おはよう。起きたのかい?もっと寝てればいいのに………」
「塔矢、出かけるの?」
そんなつもりはなかったが、寂しい気持ちが態度に出てしまった。アキラが眉を曇らせる。
「うん。どうしても外せない仕事が入っていて………」
本当は、今日一日アキラの側で過ごしたいと思っていた。特に何かしたかったわけでも
ない。
ただ、自分の視界にアキラをとどめておきたかったのだ。
「コレ、朝食。ヨーグルトなら食べられる?」
アキラが差し出したコンビニの袋を受け取って、
「何時に帰ってくるの?」
と、必死に訊ねる。縋り付きたいが、その一歩が踏み出せなかった。
「夕方までには帰るよ。それまで、ここにいてくれる?」
ヒカルは何度も頷いた。
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