裏階段 アキラ編 21 - 22
(21)
「もしかして、塔矢アキラの…」
その名を口にされるのにも虫酸が走った。
情けないほどに、身を守る方法すらその相手は知らなかった。
こちらの拳が顎に届くまで、ただ目をつぶって「ヒッ」と小さく唸ることしか出来なかった。
殴った瞬間に殴るだけの価値もない相手だと分かった。
眼鏡が飛び、膝が崩れるようにして座り込むと、その男は泣きながら這いずって逃げようとした。
その襟首を掴んで立ち上がらせ、車に押し付ける。
「オ、オレだけが悪いんじゃない。」
一瞬、男が何を言おうとしているのかわからなかった。
「どういう意味だ?」
襟首を捕まれ締め上げながらも、男は急に卑下た笑みを浮かべた。
「…き、君はあの子の保護者ではないな…。アキラと、どういう関係なんだ?」
無言で更にきつく締め上げた。男は苦しそうに呻きながらも口の端で笑い続けた。
「き、君も同じだ。ハハ、ハ…、あの子に囚われている、ヒ、ヒ…」
無気味な思いがして手を離した。男は咳き込みながらも何かぶつぶつ言いながら笑い続けた。
アキラの担任が退職した事を聞いたのはその数日後だった。
「ちょっと神経質そうな先生だったけど、軽いノイローゼだったみたい。新しい女の先生は
活発で優そうな方だったわ。」
「…そうですか。」
庭師が入った後の片付けの合間に、明子夫人が話してくれたのだ。
(22)
アキラは表側に落ちた松葉を芦原と一緒に掃き集めている。何かふざけあっているのか、
時折笑い声が聞こえて来る。ひところを思えば明るくなったようで安心した。
その時オレは、普段ほとんどまた眼鏡をかけなくなっていた。
「緒方君、ちょっと来てくれたまえ。」
ふいに縁側に立っている「先生」に声をかけられた。
明子夫人に断って家の中に入り、奥の対局や研究会を行う和室に向かう。
先生は先刻まで所用で出かけていた外出着のままで座していた。
部屋に入って障子戸を閉める瞬間に「あれっ、緒方さんは?」と庭先で母親に問う
アキラの声が聞こえた。
「…今回の件では、君にまで心配をかけてしまったようで、申し訳なかった。」
思いもかけずそう言われて、驚いて先生を見つめた。
細かいいきさつも、何をどこまで知っているのかはわからなかった。
ただ時期を同じくして親としてもアキラの変調に気付く部分があったのだ。
アキラに気付かれないよう学校側とある意味話し合を始めたところだったようだ。
当然と言えば当然だが。
「いえ、オレは別に何も…」
見ると、先生がオレに頭を下げている。驚いて思わず「止めてください」と小さく叫んでいた。
「…アキラくんの事で、オレが昔の事を思い出したとでも?大丈夫ですよ。」
庭で水撒きが始まったのか、一際かん高い歓声が―主にそれは、芦原のものであったが、
アキラの笑い声がする。赤ん坊の時から今までの様々なアキラの表情が頭に浮かんで来る。
「むしろ逆です。…アキラくんのおかげでどんなに救われたか。」
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