天涯硝子 21 - 22


(21)
冴木もつられて笑ながら、明日にするかと言ったが、すぐにだめだと言い直した。
「好きな時にって、言ったじゃんか」
その声には笑いが含まれていたが、ヒカルは拗ねたようにうつ伏せになった。
「それは、俺だって会いたいさ」
しばらく、言葉尻を捕らえての問答になったが、途中でヒカルが黙り込んだ。
ヒカルは家に帰らなければいけないし、対局のために気持ちを切り替える必要があるだろうと
冴木は言った。
冴木は、自分との、大して気負う必要のない対局にまで負けてしまう、今のヒカルが気になった。
いつもの、どんな対局でも真剣に臨んでいる、対峙するのも怖いようなヒカルではない。
自分とのことで、ヒカルの身体も気持ちも乱したくはなかった。
「…週末にはさ、会うようにしよう。お互いに余裕があれば、どこか出掛けたっていい」
「…うん」
小さな声で返事を返しては来たが、ヒカルは背中を向けてしまった。
冴木はそっとヒカルの髪を撫でた。そして、ヒカルが声を殺して泣いているのに気づいた。
「…進藤!」
「…ごめん。何でもないよ」
ヒカルは指で涙を拭い、無理に笑顔を作って見せた。そうしながらも涙を零している。
「……」
「…あれ?困ったな…困ったな…」
手のひらや甲で、何度も涙を拭っているヒカルを冴木は抱き起こした。
そっと抱き寄せ、頭を撫でてやっても手で顔を覆い、しゃくりあげて泣き止まない。
冴木はすっかり困ってしまった。別れ話を持ち掛けているわけでもないし、喧嘩をして強く
ヒカルを責め立てたわけでもない。
泣き止むことが出来ないほど、何がそんなに悲しいのかわからない。
「…俺んとこ電話して来いよ。俺も、おまえに電話するよ」
「火曜と土曜には嫌でも会えるじゃないか」
「…わかったよ。明日会おうな、そうしよう」
「…進藤、泣き止めよ」
髪を撫で、体をやさしく摩ってやってもヒカルはしばらく冴木の腕の中で、声を殺して泣き続けた。

ヒカルがそっと顔を上げて、冴木を見た。大きな瞳に涙をいっぱいに溜めている。
冴木は切なくなりながら、その涙を拭いてやった。
何か言いたそうにしているのだが、うまく言葉にならないようだ。
「いいよ、ゆっくり話せばいい」
「……」
ヒカルは泣いたことが恥ずかしいのか、照れたように笑いながら、指でそっと冴木の顔の
輪郭を辿った。
「…冴木さんは、急に消えたりしないよね…」
「消えないよ」
すぐに答えた冴木を、ヒカルはまっすぐに見つめた。言葉の奥に、何か隠してはいまいかと、
見極めようとするかのように。
「…消えるって、そんなことしない。おまえを置いてなんか行かないよ」
そう言われて、ヒカルは嬉しそうに笑った。
「そんなことが心配だったのか?」
ヒカルはホッとしたように大きくひとつ息をつき、冴木の胸に顔を埋めた。


(22)
ヒカルはそうしながら、自分の胸が締めつけられるような痛みを感じていた。

泣いたのは、どうしようもない後悔からだった。
佐為に、満足に碁を打たせてやらなかった。
消えてしまうと不安がる佐為の気持ちも考えずに、放っておいた。
悔やんでも悔やんでも、元に戻らない現実。
佐為は、夢の中に現れて笑顔を見せてくれたけれど、
あの頃のように、碁を打つ自分のそばにいて、笑顔を見せて欲しい…。

そして今、願ってしまう。
冴木に、片時も離れずに、そばにいて欲しい。
あの頃の佐為のように、自分のそばにいて欲しい…。



翌日の午後、ヒカルの家を冴木が訪ねて来た。
昼食を取り、部屋に戻ると玄関のチャイムが鳴った。
母が応対に出たと思ったら、冴木の声がしたのでヒカルは驚き、手にした詰碁集を思わず落とした。
玄関に行くと、母が冴木にいろいろと礼を言っていた。冴木は照れた様子で立っていたが、
ヒカルが姿を現すとホッとした表情で、軽く手を上げて挨拶した。
「忘れ物届けて下さったんですって」
「こっちまで来る用事があったから、ついでに」
明日、研究会で会えるのにどうして?そうついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
ヒカルに小さな紙袋を渡し、それじゃ、と帰ろうとする冴木をヒカルは引き止めた。
「上がってってよ、冴木さん」
「用事はお済みなんでしょ?どうぞ、お茶でも」
ふたりにそう誘われるのを冴木は断り、帰ろうとするのをヒカルは腕を捕み、
なかば強引に家に上げた。
ヒカルの部屋に行くと、すぐに母親が冷たいお茶を持って来た。
冴木が、いつもは見せない顔で緊張している様子が、ヒカルにはおかしかった。
「人にお茶煎れてもらうのなんか久しぶりだ」
そう言って、冴木はお茶を飲む。
そうだった。冴木は一人暮らしだ。よく棋士仲間が冴木の部屋に上がりこむけれど、
冴木が手際よく人の面倒を見るせいか、逆に誰も気にとめない。
だから、独り暮らしができるのかもな、とヒカルは思いながら紙袋の中を見た。
中には、手触りのいい綿のシャツが入っていた。
ヒカルのシャツではない。淡い水色の形のいいシャツにはまだ、新しいタグが付いていた。
「それな、おまえにやるよ」
冴木は氷をいい音をさせて噛んだ。
「忘れ物なんか、してないって思ったんだー」
「…おまえに会うための口実」
そう言って冴木は笑った。

前の晩、ヒカルを車で家まで送った冴木は、車の中では、いつものように明るく他愛もないことを
話していたヒカルが、玄関前に着く頃には寂しそうな顔をして黙り込んだことを気にしていた。
玄関前に立ち、冴木を見送るヒカルが、無理に笑顔を作っているのがわかった。
何故なのだろう。何故ヒカルは自分を今にも失ってしまうような、不安な顔をするのか。
冴木は今日一日、ヒカルに会わずにいることが、後で後悔するような気がしてならず、
口実を作ってヒカルに会いに来たのだ。



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