黎明 21 - 23
(21)
「ではそなたは彼に何を与えられるというのです?」
「そなたの望むものは何です?」
あの屋敷で、問い掛けられた問いが甦る。
僕が望むもの。
彼の笑顔。日の光のように明るく力強く健やかな近衛光。
僕が恋した彼は、僕が焦がれた彼は、そういった存在だ。
こんな抜け殻のような彼を手にしたからといって、それが何になる。
そんなものが欲しい訳じゃない。
随分と強欲な奴だ、と、闇の声が嘲るように囁く。
何もかもを望むままに、その通りでなければ欲しくはないとでも言うのか。
何様のつもりだ。
それの何処が悪い?彼の笑顔がもう一度見たいと、思うことのどこが悪い?
悪いともよ。あいつがおまえのために笑わなきゃならない理由なんてどこにもないだろ。
それがなんだ。強欲だろうとなんだろうと、それでも僕はそれが欲しいんだ。
違うね。おまえは、こいつがおまえを見ないから、その嫌がらせにこいつの望むものを与
えないだけだ。
違わぬと言うのならば、つまらぬ意地など張っていないで、さっさと抱いてやれ。
闇の声がそそのかす。
己の内の声に、必死に耳を塞ぎながら、彼を抱く腕に力を込めた。
望んだものは、熱い人肌と甘い夢。
それは確かに彼の望んだものだったのかもしれない、と思う。
他ならぬ自分がまた、それを切望するのだから。
そうして僕は彼から、例えまやかしとはいえ夢と安寧を奪っておきながら、代わりに自分
が彼に与えられるものなど何もないのだ。彼がどんなに望んでも、己自身を彼に与えてや
ろうなどとは思わないのだ。
(22)
心の内に隠した欲望を告げる声に耳を塞いで、また彼は夜の闇に彷徨い出る。
己の熱を鎮めるように冷水を頭から全身に浴びせかけ、それから悲痛な面持ちで天を仰ぎ
見ると、ざあっと風が吹き荒れ、草木を揺らし、彼の身を震わせた。月のない夜の空を叢
雲が流れて星を遮り、風がざわざわと木々を揺らした。
闇は深い。この先、朝が訪れる事など信じられぬほどに、この世は暗い。
けれど夜はいつかは明けるとわかっているから、夜の闇には耐えられる。だが人の抱えた
闇は、明ける事はあるのだろうか。彼を、彼の堕ちた闇からまた日の光の下へと連れ出す
事ができるのだろうか。そして自分は、自分の抱えたこの闇に飲み込まれずにいられるの
だろうか。
(23)
己の内の闇に気付いたとき、経験浅く年若い陰陽師は、初めて闇を恐れた。
かつて彼の目には世界は常に明瞭で見通しがよく、全ては手にとるように明確だった。恐
れるものなど何もないと、思っていた。
ひとびとは闇に跋扈する正体の知れぬ妖しを、ひとを呪い祟りなす神々を、この世の無念
の凝り固まった鬼を、恐れた。だが人の目には見えなくとも彼の眼にはあらわに見える鬼
や妖しは、彼にとっては慎重に処すべきものであり、決して侮りはしなかったものの、ま
た、恐るべきものではなかった。
また、鬼や妖しなどよりもひとの方が恐ろしいと、ひとの心の闇の方が恐ろしいと言うひ
ともいた。確かに、ひとはそれぞれ心の中に闇を抱えている。けれどそれも彼にとっては
怖れるべきものではなかった。ひとの心は容易く闇に侵食され、その闇に魔が宿り、更に
その闇が凝るとオニとなる。けれどそれを哀れとこそ思え、恐ろしいと思ったことは無か
った。
けれど今、自らの内に黒々と沈む底なし沼のような闇に気付いてしまって、己の中のその
闇を、恐ろしいと、彼は思ってしまった。昼でさえ光の届かぬ深い森の奥の、夜の闇より
も尚深い、闇の暗さを、その深さを、己の中のその闇を、若き陰陽師、賀茂明は初めて怖
れた。己の中の闇に気付いて、それまで明瞭に見通せた条理が突然不条理と化してしまっ
たかのような不安に、彼は怯えた。
そして、怖れるものなど何もないと思っていた己の浅薄さを、彼は嘲った。
風は吹き荒れ、雲を走らせ、黒々と繁る木々の梢を、名付け得ぬ我が身の闇をざわめかせる。
夜明けは、暁の時は、まだ遠い。
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