無題 第2部 21 - 25
(21)
翌日、いつも通りに登校し、授業を受けたが、内容はさっぱり入ってこなかった。
持ち回りなんだから、と押し付けられた図書委員の仕事が終わると、外は日が暮れ始めていた。
何となく人恋しくて、今日は一人のアパートには帰りたくなかった。
とはいえ、行く所などそれほどある訳ではない。自然と、アキラの足は碁会所へ向かった。
市河の元気な声を聞けば気分が晴れるかもしれない、と思った。
ずっと、うつむき加減で歩いていたから、ビルの碁会所のフロアに電気が点いていない事にも
アキラは気付かなかった。
ドアの前まで来て、初めて室内は暗く「本日定休日」の札がかかっているのに気付いた。
「休み、か。」
なんだか本当に体中の力が抜けてしまって、がっくりと廊下の壁にもたれかかった。
どうしよう。どこにも、行く所なんか、ない。
芦原さんにでも連絡してみようか、そう思って、アキラは芦原の携帯を呼び出した。
「お、アキラか?どうした?」
「え…と、特に用事って訳じゃないんですけど…」
「あ、ゴメン、ちょっと待って。」
アキラの言葉を遮って、誰かと話をしているようだった。
相手はきっと女性だ。アキラは直感的にそう思った。
「ゴメンな、何?」
「ううん、何でもないんです…どなたと御一緒なんですか?」
「え?えーと、アハハ…。」
電話の向こうで芦原が照れ笑いしているのが伝わってきた。
「ほんとに、大した用事じゃなかったんです。どうも、お邪魔して済みませんでした。」
そういって、通話を切った。
(22)
―そうだよな。芦原さんだって、いつもボクの相手をしてくれるって訳じゃないんだ。
なんだか芦原にまで見捨てられてしまったような気がして、ますます憂鬱になってきた。
夕暮れ時の街は、帰り道を急ぐ人や、これから遊びに行こうという人でごった返していた。
アキラと同じ年くらいの少年二人が楽しそうに喋りながら、アキラの目の前を通り過ぎた。
―これだけ沢山人がいるのに、どうしてボクは一人なんだろう。
今までは、そんな事、気にした事もなかったのに。一人が寂しいとか、友達が欲しいとか、
思った事もなかったのに。
通り過ぎる人並みをぼんやりと見ながら、アキラは黄昏時の街に立ちつくしていた。
雨が、降り始めていた。
(23)
雨が、静かに降っていた。
外はすっかり暗くなってしまっているのに、明かりを点ける気にならなくて、ベッドサイドの
小さなライトを点けただけの薄暗い室内で、緒方はグラスを片手に、煙をくゆらせていた。
インターフォンが鳴る。
誰も来る予定はないのに、誰だろうと思って玄関へ向かう。
心の底に小さな期待と、けれどそれを否定しようとする思いが責めぎあっていた。
彼がこの部屋に来る事は、もうないのだ。
けれど、モニターに映ったのは、正しく彼が待ち望んでいた人物だった。
「…アキラ!?」
モニターに映るアキラの前髪に雨粒が光った。
「…どうしたんだ?すぐに上がって…いや、オレが降りていく。すぐに行くから。」
エレベーターを待っている時間が、ゆっくりと降りていく時間が、とてつもなく遅いような気がして
緒方は焦った。こうしている間にも彼は逃げてしまうのではないか。こうして、急いで降りていっても、
もうそこにはアキラはいないのではないか。
1階についたとたん、緒方は開きかけたドアからエントランスへ向かって駆け出し、彼の名を叫んだ。
「アキラ…!」
(24)
彼はまだそこにいた。
名を呼ばれて、ゆっくりと緒方に振り向いた。
雨の中を傘も差さずに来たのか、全身が濡れそぼっている。
その眼に涙が光ったように見えたのは気のせいだったのか。
「バカヤロウ!何してるんだ、こんな雨の中…!」
緒方が肩をつかむと、アキラは苦も無く体重を緒方に預けた。
「…どうしたんだ…?大丈夫か…?」
両肩を掴まれて、初めてアキラは緒方を見上げたが、その目は虚ろで、何の感情もみえない。
何があったのかはわからないが、魂の抜けたようなアキラの目が痛ましくて、緒方は雨に濡れた
身体を抱きかかえ、そっと、尋ねた。
「うちに…来るか…?」
腕の中で、小さくアキラが頷いた。
―オレの所で、いいのか?
そう思いながらも、緒方はそれを口にする事はできなかった。
(25)
かちゃり、と小さな音を立てて洗面所の扉が開き、緒方の手渡した部屋着に着替えたアキラが
出てきた。緒方の服は、彼の身体には大きすぎて、余計に彼を頼りなげに見せた。
緒方がそちらの方を見ると、アキラはどこへ行くでもなく、その場に立ちつくしていた。
立ち尽くしたまま、ぼんやりと水槽の魚を眺めるアキラに、緒方はコーヒーカップを手渡した。
水槽のポンプが小さな音を立てている。
それとは別に、静かな、少し気怠るげな音楽が流れているのに、アキラは気付いた。
いつもより砂糖を大目に入れたコーヒーにアキラは口をつけた。熱い液体が、喉から胃に流れ
込む。その温かさを確認するように、アキラはコーヒーカップを両手で包んだ。
そんなアキラを痛ましい目で見詰めながら、緒方はデスクの前の椅子に身を沈めた。
|