裏階段 アキラ編 21 - 25


(21)
「もしかして、塔矢アキラの…」
その名を口にされるのにも虫酸が走った。
情けないほどに、身を守る方法すらその相手は知らなかった。
こちらの拳が顎に届くまで、ただ目をつぶって「ヒッ」と小さく唸ることしか出来なかった。
殴った瞬間に殴るだけの価値もない相手だと分かった。
眼鏡が飛び、膝が崩れるようにして座り込むと、その男は泣きながら這いずって逃げようとした。
その襟首を掴んで立ち上がらせ、車に押し付ける。
「オ、オレだけが悪いんじゃない。」
一瞬、男が何を言おうとしているのかわからなかった。
「どういう意味だ?」
襟首を捕まれ締め上げながらも、男は急に卑下た笑みを浮かべた。
「…き、君はあの子の保護者ではないな…。アキラと、どういう関係なんだ?」
無言で更にきつく締め上げた。男は苦しそうに呻きながらも口の端で笑い続けた。
「き、君も同じだ。ハハ、ハ…、あの子に囚われている、ヒ、ヒ…」
無気味な思いがして手を離した。男は咳き込みながらも何かぶつぶつ言いながら笑い続けた。

アキラの担任が退職した事を聞いたのはその数日後だった。
「ちょっと神経質そうな先生だったけど、軽いノイローゼだったみたい。新しい女の先生は
活発で優そうな方だったわ。」
「…そうですか。」
庭師が入った後の片付けの合間に、明子夫人が話してくれたのだ。


(22)
アキラは表側に落ちた松葉を芦原と一緒に掃き集めている。何かふざけあっているのか、
時折笑い声が聞こえて来る。ひところを思えば明るくなったようで安心した。
その時オレは、普段ほとんどまた眼鏡をかけなくなっていた。
「緒方君、ちょっと来てくれたまえ。」
ふいに縁側に立っている「先生」に声をかけられた。
明子夫人に断って家の中に入り、奥の対局や研究会を行う和室に向かう。
先生は先刻まで所用で出かけていた外出着のままで座していた。
部屋に入って障子戸を閉める瞬間に「あれっ、緒方さんは?」と庭先で母親に問う
アキラの声が聞こえた。

「…今回の件では、君にまで心配をかけてしまったようで、申し訳なかった。」
思いもかけずそう言われて、驚いて先生を見つめた。
細かいいきさつも、何をどこまで知っているのかはわからなかった。
ただ時期を同じくして親としてもアキラの変調に気付く部分があったのだ。
アキラに気付かれないよう学校側とある意味話し合を始めたところだったようだ。
当然と言えば当然だが。
「いえ、オレは別に何も…」
見ると、先生がオレに頭を下げている。驚いて思わず「止めてください」と小さく叫んでいた。
「…アキラくんの事で、オレが昔の事を思い出したとでも?大丈夫ですよ。」
庭で水撒きが始まったのか、一際かん高い歓声が―主にそれは、芦原のものであったが、
アキラの笑い声がする。赤ん坊の時から今までの様々なアキラの表情が頭に浮かんで来る。
「むしろ逆です。…アキラくんのおかげでどんなに救われたか。」


(23)
バスタオルを手渡してやるとアキラはニコリともう一度微笑み、それを腰に巻き付けると
こちらにも早くシャワーを浴びる事を促そうとするように手を伸ばして来て、
オレの眼鏡を外し、脇の洗面台の上に置く。シャツのボタンを外しにかかる。
その手を掴んで制し、ベッドを顎で指すとアキラはオレから離れてそちらへ向かった。
腰からバスタオルを外し、こちらに背を向けてベッドに腰掛けて体に残る雫を拭っている。
艶かしく動くアキラの白い背中を見つめる。
初めて彼を抱いた時の光景が蘇る。
その時のその背中は苦痛に何度も撓り、反り返った。それでも彼は声一つあげなかった。
強い勢いの熱めのシャワーを浴びる。
精神的に負い目を感じながら肉体は既にアキラの感触を望んで勃ちかかっている。
「…囚われている、か。」
あの時の教師の言葉が蘇って来る。
何度も決意しながらもこうして彼を手放せないでいる自分がいる。

事件の影響が全く彼の中に残らなかった訳では決してなかった。
年の離れた大勢の大人の中に混じる事に慣れていた子供だったが、事件以来は常に「先生」か
オレの視線の届く範囲に必ず彼は留まるようになった。
こちらにもアキラとの距離間をとろうとしていた矢先に起こった出来事であったため、
今にして思えば、必要以上に彼の傍に居すぎたかもしれない。
「アキラのやつ、いつも緒方さんにくっついてますねえ。」
半分嫉妬混じりに芦原にそう指摘されるまではあまり意識していなかった。


(24)
その指摘が不正確であったのは、アキラがオレにくっついていただけではなく、オレの方も
アキラから離れられなかった事を見落としていた点だ。
常に互いを視線の端に置いて来た。それが当たり前になっていた。そうする事で少なくとも
オレは安心していた。
そして出来うる限り彼の碁の相手をしてやった。
アキラが自分と一緒にいる理由はその時は考えていなかった。

「あの子、怖い。」
最初彼女のその言葉を聞いた時、その意味をオレは掴みそこねていた。
「あの子って?アキラくんの事かい?」
リーグ入りの常連となり、収入も上がってつき合う女性の種類も変化した。
経済的な援助が必要でなくなれば適度に性欲を処理出来るパートナーでさえあればいい。
そんな中でも比較的長く続いた相手だった。
「家具を選びたい。男の人の意見も欲しい。」とせがまれて買い物につき合った。
遠回しに結婚を迫られていると思った。そろそろ真剣に考えてもいい頃かとは思った。
そうして街なかを彼女と歩いている時に、アキラと出会った。
学校帰りの小学校の制服に身を包んで向こうからやって来た彼は、一瞬驚いたような顔をして、
小さく彼女に会釈してすれ違った。
オレは特にかける言葉も見当たらなくて無言のまま通り過ぎた。それだけだったと思っていた。
「あの時私、綺麗な顔した男の子だなあって思って一度振り返ったの。そしたら、
…あの男の子、道ばたに立ったままこちらを見ていたの。…私の事、睨んでた。」
「気のせいだろう。」
そう答える他はなかった。アキラが彼女を睨む理由など何も思い当たらなかった。


(25)
「多分アキラくんが睨んでいたのは、君じゃなくてオレだろう。なんせ…」
前は違う女性を連れていたから、という言葉を言いかけて飲み込み、
「リーグ戦のさなかだからね。緊張感が足りないとでも思ったのさ。」と濁した。
子供なりに潔癖さが芽生える時期である。異性に対する興味が出て来る一方で、
そういうものを嫌悪する感情も子供によっては強く出て来る。
大人同士が交わすその手の会話を耳にして理解出来る年頃だし、アキラは頭の良い子だった。
オレに関するその手のあまり良くない話も少なからず耳にしているだろう。
「…そういうのじゃない気がした。」
彼女は納得しなかった。
今にして思えば女が持つ勘とはなかなか鋭いものだと感心できる。
せいぜい幼い心なりの独占欲だろう、と最初のうちは軽くそう思っていた。
物語でよくあるように、子供は常に自分に寄り添い、無条件に敵や怪物から自分を守ってくれる
強い味方に憧れる。それは従順な飼い犬であったり、異世界の巨大生物だったりする。
両親の愛情とはまた違うものだ。
その味方が自分以外に忠誠を誓う対象を持つ事は許されない。
ある意味それだけアキラが孤独を抱えている証拠とも言え、同情する気にもなった。
自分にしてみればアキラを裏切るつもりは毛頭無かった。
突然オレのマンションにアキラが訪ねて来たのはそれから数日してからだった。



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