裏階段 ヒカル編 21 - 25


(21)
「見ていたんでしょう、ボクとsaiの対局を…。大事なプロ試験を休んでまで臨んだのに、
あんなふがいない戦いをしてしまいました。…他の事に気をとられて…。」
「実力を出し切れていれば勝てたとでも?」
アキラが言葉を詰まらせる。それでもオレのすぐ背後に寄り、食い下がるように言葉を続けた。
「お願いします、ボクと碁を打ってください!ボクは…、ボクはもっと強くなりたいんです!
…あのsaiに勝てるくらいに、…あ、いえ、せめて対等に戦えるくらいに…!」
そんなアキラに向き直り、荒々しくその腰に腕を廻し、顎を捉え上に向かせる。
一瞬怯えたように目を見張り、すぐに覚悟したようにアキラは体から力を抜き目を閉じる。
不条理な行為に対してまでまるで聖職者のように受け入れ許容しようとするその
殊勝な態度に腹が立った。
顎を捉えていた手をアキラの細い首に移動させて包み、力を込めた。
「…っ…!」
じわりと首が締まる感触にアキラが苦しげに眉を顰めた。
「…プロをなめるな。」
「…なめてません…、本当です…。」
首を捉えたオレの腕にアキラは両手を縋らせては来たが、抵抗する兆しはない。
2人だけでこうして会うようになってアキラがオレのとる行為に対し抗った事はない。
さらに力を加える。
「saiの正体などゆっくり突き止めて行けばいいだろう。昨日君は何をそんなに焦ったんだい。」
「別に…それは…」
圧迫されて殆ど出ない声でアキラが答える。


(22)
「確かに君はプロに通用する実力を持っているかもしれん。試験も合格するだろう。だが、
本当の魔物も化物もプロの世界にはうようよいるんだ。勘違いするな。」
与えながら同じ息苦しさを自分でも感じていた。思わずさらに指に力が入った。
アキラの顔色がうっ血して赤黒くなり、唇が震え始める。
「…ごめ…んなさ…」
ふいに我に還って手の力を緩めると失神しかけたアキラの膝が折れて床に崩れそうになった。
その脇の下に手を入れて支え、立ち上がらせる。
「アキラ…!?」
ぐったりと後ろにアキラの首が倒れる。驚いて両肩を掴んで揺さぶると、
激しく咳き込んでようやく意識を取り戻し空ろな視線ではあったがオレに目を向けた。
身を屈めてアキラの体を思いっきり抱き締める。
「…すまない…。」
本音はもっと単純に、ただ進藤にもう一度会いたかったのではないのか、と問いつめて
いるだけだった。
「…緒方さん…は…悪くありま…せん…」


(23)
―…ただ進藤にもう一度会いたかった。
プロの世界に入ればアマチュアの大会に出る事はもうない。
進藤が碁を打ち続けていたとしても、正式な対局をする機会はなくなる。
進藤との接点が一切なくなってしまう。

「…彼に、今年プロ試験を受けているという話はしたのか?」
「…いいえ、…なぜですか?」
荒い呼気が混じった声でアキラが答える。
冷たいフローリングの床に震動でアキラの肩甲骨や腰骨が軋んで擦れる音だけがする。
彼の衣服だけが全て剥ぎ取られて床の上に散っていた。
「いや、いいんだ。」
アキラの体を床に押し付け深い箇所で繋げた部分を激しく動かすと、彼は目を閉じて
苦痛と快楽の波間に漂う。
波動の頂点に辿り着き身を仰け反らして喘ぐ彼の首に蒼く指の痕が残っていた。
薄い皮膚を通して、従順な態度と仮面の下にある彼の真意がオレには見える。
その事に彼自身が気付いていない。
saiの一件が良い例だ。
今後も強い相手とぶつかる度に進藤と比較し気持ちを結び付けて行くのだろう。
アキラに対して抱いた怒りがあるとしたらその事においてだった。


(24)

随分長い間時間をかけて進藤はシャワーを浴びているようだった。
嫌な予感がした。
ふと気配がして煙草を灰皿に押し付け、そちらの方を見ると
全裸で頭からずぶ濡れの状態の進藤がバスルームのドアの前に立って居た。
シャワーの音が続いたままになっている。
バスルームの光の前に立って暗い室内に向かっているため表情は分からないが、
何かを見つめるように瞳を大きく見開いているのはわかる。
「進藤?」
問い掛けても返事がない。
精神をどこかに杭打ち付けられたように無言で、カタカタと小さく肩が震えている。
まただ、と思った。
布団から起き上がって彼のすぐ前に立つ。
彼の視界にこちらが入っていないのはわかっている。
取りあえずバスルームにいってシャワーを止め、タオルを掴んで戻る。
進藤の唇が蒼ざめて小刻みに震え、何かを唱えるように呟いている。
バスタオルを頭からかぶせて軽く濡れた髪を拭き、そのままそっとタオルで
体を包みこむようにして抱き締める。
それですぐに意識を取り戻す時もあるが、症状が長引く事もある。
「…違う…、やだ…、…かな…いで…」
うわ言のような言葉を漏し始める。
今回のは後者のようだった。


(25)
ホテルでは棋士一人一人に狭いが個室に振り分けられていた。
ロビーの受付で鍵を受け取りエレベーターに向かう廊下の途中で、棋院の関係者や他の
棋士らと共に一足先に着いていた進藤と出会った。一瞬進藤がこちらを見た。
すれ違いざまに声をかけてみた。
「大丈夫、…お前にはもう、何もしない。」
だから気が向いたら部屋に来い、という意味だった。
進藤はその時は返事をせずに背を向けて立ち去った。
「何もしない」という約束が実行された事などなかった。
それでもオレ達の間に関所を渡る護符のようにその言葉は必ず交わされた。
最初からそれを望んでオレのところに来るわけではないという前提が彼には必要だった。
一通りの仕事が終わり、食事を済ませたあとちょっとした酒宴の席も用意されたが
早々に退席した。進藤が酒の匂いのする息を好まなかったからだ。
そして進藤はオレの部屋にやって来た。
ノックする音がしてドアを開くとこちらの返事を聞く事もなくするりと隙間から体を入れてくる。
「へへっ、…久しぶり、緒方先生」
ラフなジャージを着込んだ進藤はすでに自分の部屋でシャワーを浴びて来ていて
石鹸の香りを漂わせていた。
「オレはこれから風呂だ。部屋に戻るか、ロビーで誰かの碁の相手でもしてやれ。」
古い日本家屋調の宿には大きな温泉風呂があったが、進藤の世代は共同風呂というものが気恥ずかしく
馴染まないのか、内風呂ですましてしまう事が多いと聞いていた。



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