光彩 21 - 25


(21)
しばらくして、年輩の女性が出てきた。
アキラの両親は現在日本にいない。
親戚の人に頼んで、月に何度か家の手入れをしてもらっていた。

彼女は、申し訳なさそうにヒカルに言った。
今日はアキラは外出していて、帰る時間もわからない・・・と。
ヒカルはホッとした。
どうやら、アキラは病気ではないらしい。
よかった。
あれこれ考えて、一人で勝手に不安になって馬鹿みたいだ。
アキラにはアキラの都合があるのだ。
いつも、ヒカルをかまっているわけにはいかないのだ。
少し悲しい気もしたが、アキラが元気なようで安心した。

ヒカルは、元気よく挨拶をしてその場を去ろうとした。
ふと、視線を感じた。
誰かが見ている?
顔を上げた。二階のアキラの部屋が目に入る。
同時にカーテンが引かれた。

アキラが自分を避けている?
その考えは、ヒカルを絶望的な気分にさせた。

どうして?アキラに返事をしないから?
アキラが普段と変わらないように振る舞っていたのは、
ヒカルをせかしていないと言うことではなかったのか?
それは自分勝手な思い込み?
それでオレに腹を立てているの?

「塔矢・・・。」
自分はアキラに見捨てられたのだ。
世界が粉々になったような気がした。


(22)
ヒカルがアキラに会いに来ている。
部屋の外から、伯母がそう告げた。

彼女が塔矢家を訪れたとき、無人のはずの家の中にアキラがいた。
アキラの様子が変だった。
いつもの彼らしくなく、話しかけても生返事しか返ってこない。
それを深く追求するのも憚られる。
アキラはプロ棋士だ。
自分にはわからない悩みがあるのだろう。
しかし、いつから帰っていたのか、食事をとった形跡もない。
アキラの表情は暗く、顔色も悪かった。
彼女はアキラを一人にしておくのは不安だった。

「いないと言ってください。いつ帰るかもわからないと・・・」
伯母は何か言いたそうだったが、ため息をついて階下へ降りていった。
窓からそっと覗いた。
伯母がアキラの言葉をヒカルへ告げているところだった。

「進藤・・・。」
ずいぶんあっていなかったような気がする。
実際には、たったの一週間だ。
アパートは碁会所から近い。
ヒカルに偶然あうのが怖かった。だけど、あいたくて仕方がない。
アキラは緒方の所から、直接自宅へと戻ってきた。

大好きなヒカルの笑顔。
あいたくてたまらなかったヒカルがすぐ側にいる。
涙がでそうだった。
大声でヒカルを引き留めたかった。
階段を駆け下りて、ヒカルを抱きしめて・・・。
・・・できなかった。

ヒカルが、突然、アキラの方を見た。
視線がぶつかる前に、あわててカーテンを引いた。
ヒカルのまっすぐな視線を見つめ返す勇気はなかった。


(23)
道行く人が心配そうに振り返る。
知らないうちに涙を流していたらしい。
袖口でぐいっと涙を拭った。
しかし、涙は後から後からあふれ出てくる。

こんなに泣いたのは、佐為を失って以来だ。
あのときは佐為を探し回っていた。必死だった。
それでも、見つからなくて・・・。
そして、佐為に別れを告げた。
でも、アキラはいるのに。すぐ側にいるのに。
ヒカルを拒絶している。
涙が止まらなくなった。

佐為が恋しかった。
佐為の優しい声が聞きたい。
―大丈夫ですよ ヒカル―
そう言って、慰めて欲しかった。

どこをどう歩いたのかは覚えていない。
無意識のうちに緒方のマンションの前まで来ていた。


(24)
緒方はすぐにヒカルを招き入れた。
インターフォン越しに聞いたヒカルの声は、泣いているようだった。

棋譜の整理のために立ち上げていたパソコンの電源を落とした。
「勉強中だったの? ゴメン オレ邪魔しちゃった?」
手の甲でごしごし目をこすりながらヒカルが尋ねた。
目が赤い。顔が涙で汚れていた。
緒方は黙って首を振った。

ヒカルは俯いて話し始めた。
「緒方先生・・・。この前相談したよね。
あれねぇ・・・あれ塔矢のことなんだ。」
緒方は、それを知っていたことをヒカルに言わなかった。
ヒカルはそのまま続けた。
「オレ・・・馬鹿だから・・・先生の言ってる意味わかんなくて。」
ヒカルが緒方の方を見た。
まつげに涙がたまっている。
「塔矢に会えなくなってから。やっと・・・気がついて・・・。」
ヒカルはしゃべるのをやめた。
涙をこらえようとしているようだ。
涙がこぼれないように、瞬きを我慢している。

緒方は胸が痛んだ。
稚い少年が泣いている。
その原因は自分にあるのだ。

アキラを感情のない人形のように弄んだ。
ヒカルをアキラのように扱うとほのめかし、
アキラの顔色が変わるのを楽しんだ。
暴れるアキラを押さえつけ、彼の不誠実さを責めた。
お前は汚い奴だ!淫売!
その汚れた体で、ヒカルの横に平気な顔して立てるのか?
言葉でなぶり、侮辱した。

その翌日、書留で合い鍵が送り返されてきた。
緒方はその鍵を机の引き出しにしまった。

後日、研究会でアキラにあった。
その時、アキラは表面上は礼儀正しく接したが、
瞳に浮かぶ侮蔑と嫌悪の色を隠そうとしなかった。
胸の奥がちりちりした。


(25)
涙を止めようとした。
泣き声を出さないように、息を止めた。
それでも、のどの奥から声が漏れる。

緒方が、温めたミルクに砂糖とブランデーを入れて、ヒカルに出してくれた。
砂糖が多めに入ったミルクは甘く、ヒカルの心をいやしてくれるようだった。
緒方がそっとヒカルを抱き寄せた。ひどく優しい動作だった。
瞼に唇があたっている。
それから、涙の後を辿るように唇が触れては離れた。
緒方の指がヒカルの髪を梳いた。
温かい指先がヒカルの額や頬にふれる。

「もう泣くな・・・。進藤。」
―泣いちゃだめですよ・・・ヒカル―
落ち着いた低い声に、静かな優しい声が重なった。
緒方の胸にもたれかかった。
緒方の心臓の音が聞こえる。気持ちが落ち着いてくる。
いつしかヒカルは、緒方の腕の中で眠ってしまった。

夢を見ていた。
佐為がいた。
ヒカルは遠くから佐為の姿を見つめている。
佐為は碁盤の前にきちんと正座して、自分の指で碁石をおいていく。
優雅に石を操る佐為の指先に、ヒカルはみとれた。
佐為がヒカルの方を見た。
唇が動く。
声はヒカルには届かなかった。



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