失着点・龍界編 21 - 25


(21)
ゆっくりとヒカルから顔を離すと緒方は優しくヒカルの頬を撫でた。
夕暮れの淡い赤い光が足早に不穏な闇を連れて来ようとしている。
「オレなりに調べてみる。君は早く体調を戻して復帰する事だけ考えろ。
何も心配するな。二度とその場所には近付くな。」
そう言って緒方は行こうとした。ヒカルはあの事で改めて念を押す為に
緒方を呼び止めた。
「緒方さん、携帯が…」
「携帯?」
「オレの携帯、あいつらに取られちゃって…もしかしたら塔矢の連絡先とか
知られたかもしれない」
母親には「落とした」と言って手続きは頼んでおいた。中の情報は
そんなに入ってはいないとはいえ、知られて悪用される恐れはあった。
少なくとも自分が囲碁界関係の人間である事は分かったはずだ。
たとえ三谷が彼等に何も言わなかったとしても。
「わかった。それとなくアキラ君に注意をしておくよ。」
緒方はもう一度ヒカルに最初に三谷が男達と出て来たビルの場所を
確認して立ち去った。
緒方にはそう言ってもらえたものの、ヒカルはまだ何か良くない事が起きる
ような不安な気持ちの中に取り残された。
「…三谷」
男達の間で悲鳴をあげていた三谷が、痛々しかった。なのに何も出来なかった
自分が、情けなくて腹立だしかった。


(22)
一方、アキラはヒカルの事を気にしつつ自宅で詰碁集のページを繰っていた。頭に入らず、本を閉じる。
その時携帯が鳴って、開いてみると、ヒカルの名とアドレスでメールが
入っていた。
『この人のお知り合いですか?この人の携帯を預けておきます。場所は―、』
それは新宿区内の住所のあるビルの名前と、囲碁サロン「龍山」という
名があった。
「…進藤、携帯をなくしたって言ってたな…。拾った人が戻そうとして
くれているのかな…」
アキラは怪訝そうにそのメールを見る。


翌日の午後、緒方はヒカルに教えられたビルに入って行った。そこには
囲碁サロン「龍山」があり、その名は囲碁の仲間内でも耳にした事があった。
それに関する話は確かあまり耳障りの良いものではなかったはずだ。
ロビーの造りからして普通の囲碁サロンとは異質な雰囲気を持っている。
カウンター内には酒の瓶が列び、照明を落とした怪し気な場所だ。
ヒカルの言う同い年の三谷というお友達が気楽に入れる所とは到底思えな
かったがビル内に他は事務所や閉まった店しかなかった。
カウンターの若い男はそうでも無かったが年輩の客の一人が目ざとく
緒方を見て声を上げた。
「緒方十段だ…!」
雰囲気はどうでも、そういうところは普通の囲碁サロンの客と何ら
変わりは無い。


(23)
奥から席亭らしき男が慌てて駆け寄って来た。初老の背の小さな男だ。
「本当に緒方十段がこんなところに…、どういう気分転換で?」
「碁を打ちに来ただけだが。どなたか相手になってもらえるのかな?」
客達は顔を見合わせるが遠慮して声を上げない。気の荒らそうな
人相の悪い連中ばかりだったが、囲碁となると緒方に敬意を払って
いる表情が見て取れる。
緒方の持つ、その道のプロとしての威厳に圧倒されているのだ。
「僭越ながら、自分がお相手させてもらいますわ。」
サングラスを胸ポケットに引っ掛けた背の高い男が立ち上がった。
「棋力はどのくらいかな?」
「そういうのはあまり分かりませんが、この辺の連中には教えて
ますよ。とりあえず、4子置きで、お願いします。」
渡された名刺でその男の名前が沢淵とだけは分かった。
打ち始めて直ぐに、緒方は沢淵がなかなかの打ち手だと感じ始めた。
石の運びや仕掛け方にプロに近い淀み無さがあり、緒方を全く恐れる様子が
ない。むしろ不適な笑みさえ浮かべている。
緒方はタバコを銜えて火を点け、盤上に向き直る。
真剣になった様子の緒方に対し沢淵は打っている間終始御機嫌で嬉しそうに
石を運び、緒方の一手一手を見つめる。緒方の表情を見つめる。
年齢的に緒方よりひと回り上という風体のその
男に食い入るように見入られ緒方はあまり良い気はしなかった。
首筋に虫が這うような感覚だった。


(24)
「先生、何故また、こんな店に…?」
ふいに沢淵は尋ねて来た。
緒方に別の目的があると見抜いているようだった。
「…ちょっと、人に教えてもらってね…。」
棋士達の間で時々この手の店の話は聞く。対局にいろいろなものを
賭けさせる。
高額な金、女、そして少年や子供。だが当然、一見の客には裏の顔はすぐには
見せない。カマをかけてみる。
「ここには“子猫”がいるのかい?」
「さあ、何の事かな。」
「そうか。なら、いいんだ。」
はぐらかされた。
暫く様子を見るしか無い。

アキラは学校を出て駅前の碁会所に行く前に囲碁サロン「道玄坂」に
立ち寄っていた。ヒカルに携帯の事を教えたかったのだが、
退院しただろうから病院では会えない。
かといってヒカルの自宅に行く訳にはいかない。
それで以前にヒカルを探す時にいろいろ碁会所の場所を教えてくれた
ここに来てみた。ヒカルが立ち寄っているかもしれないと思ったからだ。
そこに和谷と伊角がいた。


(25)
アキラは彼等には一瞥しただけでヒカルが居ない事を確認すると
出て行こうとした。
「…待てよ!」
和谷がアキラを呼び止める。
「…話があるんだ。」
3人で外の近くの公園に行く。夕暮れにはまだ間があったが他に人影は無い。
ヒカルが突然アキラと失踪した事は和谷と伊角にとっても大きな衝撃だった。
原因が自分達の所行にある事は間違い無かった。
一時期は自分達も囲碁を辞めるべきではないかと真剣に考えた。
戻って来た二人が囲碁界に今まで通りに居られると分かり、
勝手だとは思ったが安堵した。
そして自分達も結局、ヒカルとアキラに一生恨まれ、軽蔑されても、囲碁は
捨てられない。それが和谷と伊角が出した結論だった。
それだけにアキラが何もかも捨ててヒカルと消えた事が信じられなかった。
「進藤は何も言っていないかもしれないけど…オレ達は…進藤に…」
「聞く必要は無い。」
ピシャリとそう言われて和谷と伊角はハッとなってアキラを見る。
「進藤が言わない事はボクは聞かない。進藤が許したことならボクも許す、
それだけだ。」
そう言われてしまうと何も言えなかった。それでも和谷は食い下がった。
「教えてくれよ。何であんな事ができるんだよ。」
説明する必要は無い、というふうにアキラの目は物語る。



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