失着点・展界編 21 - 25


(21)
「子供がこの時間にこんなところをうろうろするのは感心しないな。
お友達と夜遊びか。」
ヒカルは俯き加減に小さく左右を見回す。…間違いなく自分に話し掛けられて
いるようだ。助けが欲しいあまりに幻聴が、という訳ではなさそうだった。
恐る恐る目線を上げる。
薄い色のスーツに身を包んだ長身の男、緒方がヒカルを見下ろしていた。
「…まあいい。見かけたのがオレで良かったな。棋院のおじさん連中には
黙っておいてやる。補導員とかに捕まる前に早くお家に帰るんだな。」
緒方はタバコをくわえると周囲を見廻す。今すぐにも立ち去りそうである。
ある意味、ヒカルにとっては残酷な選択となった。
助けを求めれば事情を話すはめになりかねない。見知らぬ通りがかりの輩に
声を掛けてもらえた方がよほど気が楽だったかもしれないのだ。
そうして迷っている間も激痛はヒカルの下腹部を襲い、血の気を失った頬を
汗が滴り落ちた。だがネオンの明かりの下では顔色までは伝わらない。
どうしよう、どうしよう…と、決意が出来ず声を出せないままでいた。
緒方は歩き出した。数歩歩いて、最後にもう一度ちらりとヒカルを見た。
「…進藤?」
汗と共に、半ば放心状態の表情のヒカルの目から涙が伝い落ちていた。
ようやくヒカルの様子がおかしいことに気が付いた緒方が近付いて来る。
自分の唇がどう動いて、その時緒方にどう話したのかヒカルは覚えていない。
…次に意識が戻った場所は、見知らぬ部屋の長椅子の上だった。


(22)
「…ええ、はい、そうです。…彼は今夜はこちらで…。連絡が遅くなりまして
申し訳ありません。」
ブ−ン…という微かなモーターの音と、誰かとやり取りしている緒方の低くて
穏やかな声が聞こえていた。
ヒカルは上半身を起こし、周囲を見回して長椅子の背もたれの向こうに立つ
緒方を見つけた。電話を切り、緒方もヒカルに気が付いた。
「…あの…もしかして、ここ、緒方さんの…?」
「もしかしなくてもオレの部屋だ。」
「す、すみませんっ、オ、オレ、帰ります。」
ヒカルは赤くなって椅子から立ち上がった。
「うん?『眠い』『泊めて』とか言っていたぞ、お前。タクシーに乗るなり
完全に眠りこけやがって…。今お前の家に電話したところだが、帰りたいなら
もう少し待て。酒がまだ残っている。」
タクシーに乗るまでは、緒方について歩いて行ったらしい。覚えていないが。
それより緒方がヒカルのぶしつけな頼みごとをあっさり聞き入れてくれた
らしいという事が意外だった。何だか気が抜けた。
だが、だからといって事態は好転したわけではなかった。意識がはっきりする
につれて再度具合が悪くなってきた。
「緒方さん、…すみません…トイレ、貸してください…。」
「ああ、そこのドアだ。」
緒方はさして気にする様子もなくパソコンに向かっている。
トイレに入るまでは、別になんともないようにして、そしてドアを閉めるなり
便座に突っ伏してヒカルは吐いた。胃が競り上がって来るような苦しさと
同時に、激しく下腹も疼き出した。


(23)
緒方はパソコンに向かってはいたが、頭の中にはタクシーに乗る前の、
ヒカルの表情の事が引っ掛かっていた。
…確かにあいつは、泣いていた。だがその事に触れていいものかどうか。
一時期真剣に囲碁をやめようとしていた時期もあったと聞いている。
「…まあ、あいつはあいつなりにいろいろあるんだろうな…。
…進藤の奴、まさか酒でも飲んだんじゃないだろうな。フッ。」
そのヒカルは、トイレの中で激しい苦痛に喘いでいた。
便器の中が真っ赤に染まる程の激しい下痢。腸の中で出血が続いているのだ。
一度峠を越したと思って流しても、直に次の痙攣が来る。出口の周辺が腫れて
いて、その瞬間の度に引き連れるような痛みが走る。
「ううっ…クッ…」
泣きながら天井を仰ぎ、ひたすら嵐が過ぎ去るのを耐えて待つ。
ハアハアと肩で息をし、ようやくおさまりが来て水を流して立とうとした時、
ポトリと何かが足元に落ちた。伊角が入れてくれたハンカチだった。
それが鮮血に染まっていた。それを見た時、スーッとヒカルの中で何かが
下がり、ゴトリとその場に倒れた。
物音がしたような気がして緒方はトイレの方を見た。
そう言えばかなり時間がかかっている。
「…進藤?」
念のため呼び掛けてみるが、返事がない。ノックをするが同じだった。
ノブを廻すとカギはかかっていない。緒方は躊躇することなくドアを開けた。


(24)
「進藤、どうした?大丈夫か?」
緒方は倒れていたヒカルの体を起こそうとして、ハンカチに気づいた。
ヒカルの内股には伊角が拭い切れなかった乾いた赤黒い汚れが残っている。
緒方はヒカルのパーカーの襟元をグイッと下げた。
明らかにそれと分かる痕跡と痛々しいほどの歯形が、まだ性差のないヒカルの
細い首にくっきりと浮かび上がっていた。
「…なんてことだ…。」
緒方は小さく舌打ちをするとヒカルの肩を乱暴に揺すった。
「シャワーを浴びるんだ。進藤。」
ぼんやりと目を開けたヒカルは、自分が今最悪の状況なのを悟った。
底がないほどにみっともない姿を緒方の目に曝してしまっている。
恥ずかしいと言うよりも、もうどうでもいいという投げやりな気持ちに
浸された。
塔矢アキラが精鋭の若手棋士なら、間違いなくその前に壁となって立ちはだか
る大きな存在であり、多くの棋士らの目標的な立場になりつつある緒方十段。
その緒方に、もしも汚物を見るような目で見られるようになったら、もう
囲碁を続ける事は出来ない。
「服を脱ぐんだ、進藤。」
「…別に…このままでいいですよ、放っといてください。どうせもう…」
バシッと容赦のない平手がヒカルの左頬に飛んだ。
「…!!」
同じ手がパーカーの裾を掴み中のランニングごと上に引っ張り上げる。
選択を与えぬ力によってヒカルの痩身からいとも簡単に衣服は剥ぎ取られた。


(25)
腕を掴まれて強引に立ち上がらされ、バスルームに連れて行かれた。
緒方は眼鏡を外してバスタブの脇に置き、シャツの両そで口を巻き上げる。
そして再びヒカルの右腕を掴み、シャワーのコックをひねるとまだ温度が
上がらないうちからヒカルの顔に浴びせた。
「う…わ…!!」
「顔を洗って口をゆすぐんだ。」
嘔吐した事もバレているようだった。緒方の指が腕に食い込む痛さで
緒方が相当怒っている事が感じられた。仕方無しにヒカルは温かくなりかけた
シャワーのお湯を口に受けてゆすぎ、吐き出す。緒方はヒカルの腕から手を
離すとざっとヒカルの足首から腿にかけてお湯をかけ、手で擦りはじめる。
余心はない。父親か兄のような、…というより、そそうをしたペットの犬か
猿でも洗うような、そういう手の感触だった。
その手が内股の付け根近くまでためらいなく動いてきて、それまでボーッと
していたヒカルはハッとなった。
「…お、緒方さん…、あとは、自分でできるよ…。」
緒方は一瞬ジロリと睨み付けてきて、その視線がヒカルの胸元で止まった。
首から胸にかけて吸われた痕が点在し、右の乳首にはやはり歯形がついて
赤く腫れていたからだった。ヒカルは慌てて手で隠した。
緒方はフーッと溜息をつくと首を振り、シャワーの吹き出し口を壁に掛ける。
「最近の子供は…何を考えているやら…、オレがお前の親だったら、
ぶん殴っている。」
「…もう殴ってるじゃん…。」
2発目を繰り出してきそうな緒方の手の気配に身を竦めようとし、その時、
ヒカルは目眩を起こした。よろけて来たヒカルを緒方が抱きとめた。



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