とびら 第一章 21 - 25
(21)
集中できなくて、アキラは本を置いた。休み時間の喧騒が耳に飛び込んでくる。
クラスメイトたちは楽しそうに騒いだり、笑ったりしていた。
雰囲気が普段よりも浮き足立っているのは、冬休みが近いからである。
二学期の授業も今日で最後で、残すは終業式だけだ。
アキラだけが一人、教室にぽつんと座っていた。しかしこれはいつものことだった。
特別、仲の悪い人もいないが良い人もいない。
休み時間は本を読んだり、遅れている授業の勉強をしたりして過ごす。
小学生の頃から自分はいつも一人だった。
進級してクラス替えをした当初は、何人かが話しかけてきた。
しかしやがて彼らも離れていった。
休み時間はともかく、放課後一緒に遊ぶことはなかったし、何よりも話が合わなかった。
ゲームもしないし、漫画も読まない。テレビもニュースを見るだけ。
そんなアキラが話についていけるはずがなかった。
でも別に気にしなかった。それでいいと思った。寄り道している暇などない。
碁がすべてだ。その思いは今も変わらない。
しかしそこに進藤ヒカルがからんでくると、それがあっさりとくずされてしまう。
振り返れば寄り道しっぱなしの自分が見えてくる。
最初はヒカルの打つ碁に惹かれた。
だが自分が追いかけたのは、その碁というよりも、ヒカル自身だった気がする。
追い、追われ、今の自分がいる。
ヒカルのことを一番知っているのは自分だと思う。
だが……。
アキラは自分の唇を人差し指でそっとなぞった。
(22)
初めて、人の唇の柔らかさを知った。
二日前のあの日、自分はヒカルに話しかけようとした。
つい無視したり、気付かないそぶりをしたりしたが、本当はそんな態度を取りたくなかった。
だが人に対して自分は呆れるほど不器用だった。
アキラはヒカルが終わったころを見計らって対局部屋に行った。結果を聞き、そして碁会所
に誘おうと思っていた。
しかしヒカルの姿はなかった。
そんなに早く終わったのかとアキラが落胆したそのとき、声が聞こえた。
そっと近付いて、それを目にしたアキラは驚愕した。
ヒカルが少年―――和谷といったか―――とキスしていたからだ。
しばらく呆然と見ていたが、正気に返るとどうしようもないほどの怒りが湧き起こってきた。
それをヒカルにぶつけた。そしてヒカルにキスをされたのだ。
冷静になった後でアキラは考えた。あの怒りはどこから発せられたのかと。
ヒカルに言った「こんなところで」というのは少し違う。
自分はたぶんそこが棋院でなくとも激昂しただろう。だが何故そうなのかわからない。
それが囲碁とは別次元のことならば、ヒカルが何をしようと自分にはまったく関係ない。
(そうだ。進藤が男とキスしていたからって、ボクが気にする必要はないんだ)
そう頭ではわかっているのに、心がどうしようもなくざわめいてくる。
和谷の手によって喘がされていたヒカルの表情が脳裏をよぎった。
身体の奥が熱を帯びる。そんな自分が嫌だった。
こんなに自分は混乱しているのに、腹立たしいことにきのう碁会所で会ったヒカルは、少し
体調は良くないようだったが、何事もなかったかのように自分に接してきた。
だからアキラもいつもの態度を崩さないようにした。
しかし口調はどうしてもとげとげしいものとなった。その結果、雰囲気はますます悪くなり
挙句の果てに北斗杯のことでヒカルの気分を害してしまった。
(4ヵ月間、進藤と碁を打てないのか……)
アキラは感情をすべて吐き出そうとするかのような、長いため息を吐いた。
チャイムが鳴り、いっせいにみなは椅子を鳴らして席についた。
すぐその後に担任が入ってくる。この時間はホームルームだ。
「じゃあこの間の続きをしなさい」
机が動き、班の形となった。それぞれが移動する中、アキラは困惑したように担任を見た。
(23)
「ああ、そうか。塔矢は前いなかったんだな。それぞれの班がテーマを決めて調べるんだ。
発表は3学期だから、冬休みの宿題だな」
この時期、こんなことをできるのは私立校くらいだろう。
世間では中学三年生は高校受験にまっしぐらだ。特に公立校はそうである。
しかしアキラは高校には進学しない。囲碁のことだけに専念したいからだ。
「おい、どこか塔矢を入れてやれ」
しん、と水を打ったように教室が静まりかえった。視線がいっせいにアキラに集まる。
担任が困ったように見回す。一人の生徒が手を上げた。
「先生、俺たちの班、少ないから」
このクラスの学級委員だ。強ばっていた空気がゆるんだ。担任もほっとした様子だ。
「そうか。じゃあ頼むな」
アキラは椅子を持ってそこに行った。別に人数は少なくない。気を遣ってくれたのだろう。
「すみません。どうもありがとうございます」
机の中央に白い紙が置かれていた。“ダイオキシンについて”と題字が書かれている。
毒性や対策、現状などをどうまとめようかと話し合っている。
海王の生徒は基本的にまじめに勉強に取り組む。
「あの、ボクは何をすればいいのでしょうか」
「別に何もしなくていいよ」
一人が言う。委員の少年が目でたしなめた。
「塔矢はいろいろと忙しいみたいだから、気にしないでいいよ。時間があったら、わら半紙に
書くのを手伝ってほしい。あと発表のときも。原稿はちゃんと作っておくから」
とりあえずの役割だ。自分に過程をたずさわらせようとしない。
それはそうだ。こんなに休むやつに調べものなど任せられるはずがない。
「わかりました」
アキラは穏やかにほほえんだ。
(24)
アキラはふとヒカルを思い出した。
いつだったか、休憩室で分厚い本を前にしたヒカルが頭を抱えていたことがある。
「冴木さん、だめだ。できない。どうまとめたらいいんだ」
「だから本を読んで、大事なところをピックアップして……」
「どこが大事なのかがわかんないんだ。明日までなのに、できなかったら班の奴らに怒られる」
アキラはヒカルを見ていた。ちょうどヒカルの後ろの席に座っていたのだ。
「そもそも何で引き受けたんだい。忙しいと言って断れば良かったんじゃないのか」
「受験ないんだから、これくらいしてもいいだろって押し付けられたんだ」
その言葉はアキラの胸に突き刺さった。ひどくうらやましかった。
自分は級友たちとの間に一線を引かれている。けれどヒカルは違う。同じ場所にいるのだ。
(誰も線を越えてボクのところには飛び込んでこない)
そう考えて自嘲した。飛び込んでいかないのは、自分も同じではないか。
「余裕ね、あの子」
アキラの耳に小さな声が聞こえてきた。それは陰口にも似た響きがあった。
たしかにヒカルはそう見える。だが実際余裕なのだから仕方ない。
さっき盤面をのぞいたら、ヒカルの優勢だった。絶対に相手はひっくり返せないだろう。
自分だったらできるが。
「ああもう! いいや、こんなの!」
ごろんと仰向けになったヒカルと目が合った。思わず表情を険しくしてしまった。
ヒカルはそのまま視線を流すと、起き上がってまた冴木と話し始めた。
勝手だと自分でも思う。だが寂しさのようなものを感じてしまった。
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何回か呼ばれてアキラは顔をあげた。緒方が自分を覗き込んでいた。
「アキラくん、どうしたんだ。ぼんやりして」
「え、いえ……何でもありません」
車は信号待ちで止まっていた。
「ならいいが。もうすぐ着く」
「すみません、わざわざ送っていただいて」
「いや、俺も棋院に用事があるからな。しかしアキラくんはここのところよく棋院に行くな。
たしか三日前も行ったんだろう? 本因坊リーグ戦のインタビューをされたんだったよな。
どんなことを聞かれたんだ?」
インタビューの内容など、ヒカルとのキスで全部どこかに吹き飛んでしまった。
「あの一柳先生に勝ったんだ、みんなきみに注目している。しっかりやれよ。ところで昼、
一緒に食べないか。アキラくんの好きなものでいい。何がいい?」
アクセルを踏む。窓の外の景色をアキラは眺めた。
視界を一瞬とおりすぎていったものが、とっさに口をついて出た。
「マクドナルド……」
「え? そんなんでいいのかい?」
「あ、今のは別にそういうわけでは……」
「そう言えばアキラくんは食べたことがないはずだな。よし、何事も経験だ」
緒方はもう決めてしまったらしく、アキラは口をはさめなかった。
天野から書類を渡された。北斗杯についてのものだった。
「四月の予選が楽しみだね。塔矢くんは誰が通ると思う?」
「さあ……」
あいまいに濁すが、きっとヒカルが通るだろうと思った。
「ぼくはね、一人は進藤くんじゃないかとふんでいる」
「あの失礼な子が日本代表か」
坂巻があからさまに顔をしかめる。
「本当にあの子は誰に対してもあの態度だ。見ていてヒヤヒヤさせられるよ」
「でも誰にでも物怖じしないのは、ある種の育ちの良さのような気がしないか?
劣等感も優越感もない、等身大の少年なんだ、進藤くんは」
天野のフォローにみなが笑う。
「ものは言いようだな。俺にはたんなるガキにしか思えん」
「やれやれ、天野さんは進藤くんびいきですか」
アキラはやるせなさを抱いた。自分ではこんな和やかな雰囲気にはできない。
大人たちは自分にはもっとかたく接する。
(お父さんが元名人だからじゃない。ボクの持つ空気自体がそうさせているんだ……)
今までこんなことを考えたことはなかったのに。
気付かなければ良かったと、顔を笑みの形にしたままアキラは思った。
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