とびら 第三章 21 - 25
(21)
「ここでとめてください」
アキラの声にヒカルは目を覚ました。いつのまにか家の近くに来ていた。
ヒカルは揺り起こされ、先に外に出された。
財布から一万円札を取り出すとアキラはそれを無造作に渡した。
「おつりはいりません」
釣りはけっこうな額なのだがアキラはそう言った。運転手が相好をくずす。
去っていく車を見送り、ヒカルはアキラにもたれながら歩いた。
「家の前でとめてもらえば良かったのに」
「目立つから」
アキラは玄関に立つと鍵を差し込んだ。
「おまえ、それどうしたんだ?」
「玄関の壺の下にあったから借りたんだ」
本当にアキラはあなどれないとヒカルは思った。
家の中は静かだった。両親は寝ているようだ。ヒカルは気が抜けて、座り込んでしまった。
「もう少しだから、進藤」
ヒカルは何とか立ち上がり、やっとの思いで部屋に着き、ベッドに倒れこんだ。
するとアキラは出て行ってしまった。ものすごく心細くなった。
なかなか戻ってこない。心臓の音が大きくなってきた。見捨てられたのだろうか。
息が詰まりそうになったとき、アキラが入ってきた。手に湯気の出た鍋を持っている。
「お湯を沸かした。身体を拭いたほうがいいだろう?」
鍋を置くと、アキラはヒカルの服に手を伸ばしてきた。
「やだっ」
見られたくなかった。和谷のつけた跡や傷を。恥ずかしくて情けなくてたまらなかった。
だがアキラは別の意味でとったようだった。
「きみを襲うわけじゃない。傷を見るだけだ。化膿したらどうする」
真剣な声に、ヒカルは胸元を押さえていた手をゆるめた。
(22)
首から足へと、アキラは全身を丁寧にぬぐっていく。
拭かれてヒカルは身体がとてもべとべとしていたことに気付いた。
「うつぶせになって」
言われるままにアキラに背を向けると、布が尻の間へとあてがわれた。
「やだ!」
「無理をしたんだから見たほうがいい」
アキラの指が入ってきた。その指はヒカルを刺激しないよう注意を払いながら中を探る。
「中で出されなかったんだね。良かった」
アキラも精液が身体にどういう影響を与えるかを知っている。
身をもってヒカルが教えたのだ。
「少しは彼にも理性が残ってたのかな」
その言葉にヒカルは自分を抱く和谷を思い出した。
何度も身体を乱暴に扱われたが、和谷は律儀にゴムだけはかえていた。
(オレの、ため……?)
最初に和谷に抱かれた朝、ヒカルは逃げるように家に帰った。
あの時は自分に何が起きたのかさっぱりわからなかった。だが和谷が謝りに来て、その心
からの言葉にヒカルはあの痛みと快楽を受け止めることができた。
二度と中では出さないという、その時の約束。
あの状況でも、和谷はそれを守ったのだ。自分を気遣ってくれたと考えていいのか。
それならどうしてあんなふうに抱いたのだろう。和谷が理解できない。
「つぅ……しみるっ」
アキラは容赦なく消毒液をつけていく。傷口がぴりぴりとしてヒカルはうめいた。
「おまえ荒っぽいぞ。もっと優しくしてくれよ」
「傷が痛むのはしかたないだろう。ほら、仰向けになって。薬をつけるから」
「ちょっ……パンツぐらいはかしてくれ」
「今さら恥ずかしがるような関係じゃないだろう、僕たちは」
そう言うとぐるんと身体をひっくり返された。
アキラの細い指が傷口に触れると、痛みがやわらぐ気がした。
せわしなく動いていたアキラの指がとまった。その形の良い眉にしわをよせている。
腹部の痣を撫でられた。
(23)
「痛い?」
「そんなには……」
「たぶん後ですごく痛むと思う。冷やしたほうがいいのかな。お腹だからだめかな」
「もういいよ。平気だから」
ヒカルはすばやく下着とジャージを身に着け、布団のなかにもぐりこんだ。
シーツの肌触りが気持ちいい。
アキラが自分を見ている。何だか気まずい。ヒカルは寝返りをうった。
それでも言わなければならない言葉は口に出した。
「塔矢、サンキューな」
どんな顔をアキラがしているのかわからない。それでも穏やかな声で「うん」と返ってき
たので、ヒカルは目を閉じた。
「オヤスミ」
「うん、おやすみ」
やがてアキラの寝息が聞こえてきた。ヒカルも眠ろうとした。
だが眠りは優しく訪れてはくれなかった。
身体が熱くて、寒い。いやな汗がにじみ出てくる。腹がじくじくと痛む。
まぶたの裏にさまざまな色が現れては消えていく。目がまわりそうだ。
のどがひきつっていて痛い。
ヒカルは身体を丸め、シーツをにぎりしめた。
「進藤! 気分が悪いのか?」
額にアキラが手を触れてくる。起こしてしまったのか。
「ごめ……と、うや……ぐっ」
ヒカルは口元を押さえた。吐き気がこみ上げてくる。
すぐに察したのか、アキラは寝巻きを脱いで差し出してきた。
「吐け!」
「……んっ……」
ヒカルは首を振った。そんな失礼で、惨めなことはできない。
だがアキラはヒカルの上体を勢い良く起こすと、背中をさすりはじめた。
ヒカルはこらえ切れなくてアキラの服に吐いた。
吐いたそれには固形物はなく、ほとんど液体だった。
(24)
何だかアキラには迷惑をかけてばかりだ。
(だいたいアイツもよくやるよ。オレなんかほっとけばいいのに……)
そう言えば昔も一度、クラスメイトにゲロを吐きかけたことがある。
あのときの原因は佐為だった。
(佐為の感情がそのままオレの身体に直結してたんだ)
そんなにも近かった自分たち。心も身体も一緒だったと言ってもいいかもしれない。
ここに佐為がいたらどんなにいいだろう。
こんなふうに弱気になってしまうのは具合が悪いせいか。
途中までの佐為の初戦棋譜が頭に浮かぶ。それは百数十手まできていた。
(小学六年生の塔矢、すごい棋力だけど、佐為が簡単にあしらってるよなあ)
驚いた一手がある。75手目の黒8の五の一手であった。白の中に黒が入り込んだのだ。
アキラがその意図をどう考えたか興味があった。
自分のような手つきのへぼい初心者があんな手を打って、さぞ困惑したことだろう。
そのときのアキラの心情が今の自分には想像できる。
「進藤、湯冷まし」
ヒカルの長袖の体操服を着たアキラが湯飲みを差し出した。
少し熱めの湯冷ましはとてもおいしかった。
「何か食べたいか?」
アキラはすでに進藤家の台所を把握しているようだ。
「いい。胃がぐるぐるしてるから」
晩ご飯は食べていなかったが、お腹は空いていなかった。
(……塔矢、今日は何を持ってきてくれたのかな……)
暗い天井を見つめながらヒカルはふと思った。
アキラの手土産はお菓子だけでなく、ちょっとした夕飯のおかずもあった。
それらは食べたことのあるものばかりだったが、一味違っていた。
夕飯を一緒に食べるようになって、ヒカルはアキラの食べ方のきれいさに驚いた。
特に魚をとても上手に食べていた。母に比べられ、呆れられてしまった。
しかたなくアキラの真似をして食べてみると、実はそれが一番魚をおいしく味わうことが
できるのだと知った。
アキラの舌は自分よりもはるかに優れているのかもしれない。
これではハンバーガーなどは食べられないだろうとヒカルは推測した。
(でもラーメンは誰が食べたってうまいんだから、塔矢も気にいるさ)
今度連れていってやろう、とヒカルは思っていた。
(25)
そんなとりとめのないことを考えていると、アキラが突然布団の中に滑り込んできた。
「ちょっと、おい塔矢!」
「何もしないよ」
そう言うとヒカルを抱きしめてきた。その暖かさと力強さに自分が落ち着くのがわかる。
だがこの感覚は前にも経験している。
そう、初めてヒカルがアキラに抱かれた後の日のことだ。
あの日、和谷は自分の様子を心配してくれ、丁寧に傷の手当てをしてくれた。
いつもなら自分を抱くのに、和谷はただ抱きしめるだけにとどめた。
その優しさが嬉しかった。自分にかけてくれた言葉が嬉しかった。
本当に嬉しかったのだ。
自分は優しい和谷を知っている。一緒にいたという時間の積み重ねがある。
だから今日のように扱われても、本気で嫌いになることはできなかった。
ヒカルは目を閉じ、和谷の部屋を思い浮かべた。
あそこは小さな秘密基地のようなものだった。和谷と自分の……。
(和谷、おまえは何を考えてるんだ……?)
いつだったか、和谷に言われたことがある。
――――なんか言えよ! 言わなきゃ、おまえが何考えてるか、わかんねーよ!
その通りだ。この言葉をそっくり和谷に返してやりたい。
今、和谷はどうしているだろうか。
アキラの腕の中で、ヒカルは和谷のことを考えながらまどろんだ。
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