初めての体験 Asid 21 - 26


(21)
 『ありがとう!芦原さん!』ボクは心の中で感謝した。
 ボクのやっていることは、歪んだイメトレじみているけど、それでも、ボクにとっては
必要なことなんだ。進藤を傷つけないためにも…!
 この調子でどんどん技術を向上させ、いつかは進藤と……そのためには、次の練習台を
見つけなければ…よぉし!明日も頑張って捜すぞ!
 そう決心すると、ボクは闘志を燃え上がらせるかのように、激しく進藤を突き上げた。
「あぁん!とぉやぁ!」
進藤がボクを締め付けた。あぁ!気持ちイイ…!ボクは、自分を解放した。

 今日のボクは、至極充実している。腕の中の進藤も、満ち足りた表情で眠っている。
ボクの満足が進藤の満足へと繋がる。やはり、ボクは精進に精進を重ねて行くしかない。
 ああ、もうこんな時間か。明日も早い。進藤を自分の胸の方に抱き寄せると、ボクも
眠りについた。

おわり


(22)
 今、ボクは、ある老人と向かい合って座っている。桑原本因坊だ。ボクは、自分が
何故ここにいるのかを、改めて考えた。

 雑誌の取材の帰りに、棋院でこの老人に声をかけられ、食事に誘われたのだ。理由は
よくわからない。気安く食事に誘われるほど、親しい間柄ではない。だが、ボクは、この
誘いを受けた。暇だったこともあったし、本因坊の人柄に興味もあった。何よりこの老人には、
自分と同じ匂いを感じた。そう、Sの匂いだ。

 本因坊に誘われるままに、タクシーに乗り込んだ。しかし、老人は誘っておきながら、
話題を振ろうともしない。ボクも、別に話したいことがあるわけではないからいいけどね。
 着いたところは高級料亭。常連らしく、仲居を目で促すと勝手にズカズカ進んでいく。
それをとがめる者は誰もいない。ボクも、その後をついて行った。廊下で仲居さん達と
すれ違った。なんか視線を感じるな。じろじろ見るなんて失礼な。
 憤慨しながらも、遅れないように老人の後に続く。暫くすると、ある一室に通された。
広々とした座敷は庭に面しており、障子を開けると美しい日本庭園が、目の前に広がった。
床の間には、水墨画が掛けられ、その前に清楚な花が一輪挿しに飾ってあった。ボクは、
こういう静かな場所は結構好きだ。落ち着く。桑原先生も結構いい趣味をしている。
 だが、気に入らないところが一カ所だけある。あの襖の向こうだ。あの奥の間には何かある……!
例えば、行灯の仄かな灯りに照らされる緋色の絹布団…とか。
段々と老人の目的が見えてきた。ただの勘だが――――ボクのS因子がそれを告げている。
なぜなら、ボクもいつかは進藤をこういうところへ連れ込んで、虐めてみたい――と常々
思っていたからだ。


(23)
 ボクは迂闊に誘いに乗ったことを後悔した。いくら何でも、老人相手では、楽しめそうもない。
ボクのモットーは老人には優しくだ。碁会所の客は、中高年が多いので、親切にしておかないと
客に逃げられてしまう。お父さんがつくった碁会所を、ボクがつぶすわけにはいかない。
むかつく客にも笑顔で応対。それがプロだ。
 誰も知らないだろうが、ボクの頭の中では、北島さんは既に百回は死んでいる。彼は、
進藤に…進藤に…あんな暴言を……!進藤の「来ない!」宣言がどれほどボクを落ち込ませたか!
 思い出したら、悲しくなってきた。ああ…それより、現状を打開する方法を考えなければ―!

 ボクの想像力を持ってしても、この桑原本因坊を進藤に見立てるのは難しい。はっきり
言って、ムリだろう。「五十年後の進藤だ」と思いこめば……だめだ!できない!!進藤が
こんな姿になるなんて思えない!思いたくない!五十年後も進藤は、猿の惑星何かじゃない!
愛くるしいポケットモンキーだ!……この老人とは、絶対ムリだ…!
 ………だが、試しもしないでムリだと決めつけるのも、どうだろうか…。最初から
負けを認めるのは、何より、ボクのプライドが許さない。これはボクに課せられた試練だ。
この老人を攻略してこそ、真の達人への道ではないだろうか?よし――――覚悟を決めよう。

 「桑原先生…今日はお誘いいただいてありがとうございます。」
ボクは、最上の笑顔でにっこりと本因坊に笑いかけた。老人は横柄に頷いた。ムカつく。
が、それを堪えて、表面上はあくまでも穏やかに微笑んだ。
「先生のような方に、声をかけていただけるなんて光栄です。」
ボクは、彼の企みに気づかない振りをして、目を輝かせて見せる。それから、あれやこれやと
老人を誉め讃えた。誉められて悪い気はしないのか、老人の口元が僅かに弛む。ボクは、
口先では美辞麗句を並べながら、頭の中はフル回転で、どうやって老人を籠絡するかを
考えていた。


(24)
 心にもないことを老人に言い続けるのに疲れた頃、料理が運ばれてきた。ボクは、
さりげなく料理を見分した。ふ…ん…やはり、椀物が怪しそうだ。
 ボクは、巧みにそれをよけて口に運んでいく。本因坊の目が、ボクの動作を鋭く見ていた。
うーん、困った。一口ぐらいなら大丈夫なような気もするが…。
 いつまでたっても、椀を口にしないのに焦れて、老人が催促する。
「飲まんのか?赤出汁は嫌いか?」
「ボク、好物は最後にとっておく主義なんです。」
そう言って、かわしたが老人は納得していないようだ。ウソじゃないのに…アッチの
趣味だって、進藤ではなく他の相手でガマンして――――和谷とか芦原さんとか…先生、
あなたとかね。うぅ、それなのに…老人は射るような視線を送ってくる。
 ちィ…!仕方がない飲んでみるか…!ボクが飲むと、抑制が利かなくなりそうで怖いの
だが………。正気に戻ったとき、死体が転がっていたらどうしよう……。
 ま、そうなっても、桑原本因坊の自業自得だよね。

 ボクが、椀を口元に持っていったちょうどその時、老人に電話が入ったと仲居が呼びに来た。
忌々しげに舌打ちをして、本因坊は中座した。電話ならここで受ければいいと思ったが、
ここのは、内線専用らしい。ともあれ、お陰でボクは助かったわけだ。
 桑原先生が部屋を出ていくと、ボクは素早く自分の椀と先生の椀をすり替えた。そして、
念のため、すり替えた椀の中身を庭に捨てた。自分の分にまで入れているとは思わないが、
念には念を入れないと…。
 先生は、酒を飲むだけで料理にほとんど手をつけていなかったし…可能性はないとは
えない。ボクは、用心深い性格なので、極力危険は避けたいと思っている。
 それにしても、もし…もしも…だ。老人がアレを飲めばどうなるか――実に興味深い。
ボクの好奇心が疼きだした。


(25)
 暫くして、桑原本因坊は中座したことを詫びながら戻ってきた。そして、ボクの膳の上を
チラリと眺め、椀が空になっているのを確認すると、満足そうに頷いた。自分の企てが
図に当たりそうなことに、にわかに機嫌を良くして、お酒もよく進むようだ。ほとんど
手つかずだった料理にも箸をのばし始めた。実に楽しそうだ。
 先生、ボクも楽しみです。早く、それ、飲んでください。
「どうじゃ?旨いか?」
本因坊が、料理に舌鼓を打ちながら、ボクの様子を窺う。
「ええ、とても…特に、椀盛りが絶品で…」
本当は、一口も飲んでいないけどね。
「ほう…?」
本因坊は、面白そうにボクを見て、少し冷えてしまった椀を口元に運んだ。
「……う…む…」
「温かいときは、とてもおいしかったんですよ。」
老人は一口だけ飲んで、椀をおいてしまった。残念だ。もう一口くらいいって欲しかった。
まあ、いいか。一口でも効き目はあるのかな。どれくらいで効いてくるのかな。

 ボクと桑原先生は、笑顔で語り合う。端から見ていれば、実に和やかな光景だろう。
だが、その胸中は推して知るべし……だ。ボクには、老人の考えが手に取るように
わかるが、向こうはボクが何を考えているかわかっているのかな…。


(26)
 小一時間もすると、本因坊の落ち着きがなくなってきた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
老人は、なんでもないと手を振ったが、肩で息をつき明らかに様子がヘンだった。ボクは、
口の端だけで笑った。俯いている老人には、その笑みは見えなかっただろう。
 苦しげに呻く老人の背後に回って、そっと背中をさする。
「大丈夫ですか?」
「…ああ…」
桑原本因坊は、辛そうに返事をした。手が震えている。
 背中をさすりながら、ボクは続けた。
「料理に何かおかしな物でも入っていたんでしょうか?例えば、椀盛りの中にでも…」
「―――― !!」
本因坊がギョッとして、振り返った。
 その瞬間、ボクは、老人を突き倒して馬乗りになった。本因坊の顔は、驚愕と不安に
彩られていた。ボクは、真上から、その表情を楽しんだ。本因坊と呼ばれるこの老人に
こんな顔をさせたのは、囲碁界広しと雖も、ボクぐらいではないだろうか。
「先生…本当はボク飲んでいないんです…」
「ボクの分は、先生が飲んでしまわれたので…」
ボクは、最高の笑顔を作ったつもりだが、老人は恐怖で口もきけないようだった。



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