落日 21 - 30


(21)
そっと元通りに籠に詰め直し、先程のように蹴倒される事のないように、部屋の隅に置かれた御台
の上に籠ごと置く。
明日になって彼が目覚めたら食べさせてやろう。きっと喜ぶだろう。「甘い」「美味しい」といって笑っ
てくれるだろう。
そして自分も今度は何か彼を喜ばせるようなものを持ってこよう。
あどけない寝顔に思わず頬が緩む。こんなに愛しいものがいただろうか。こんなに誰かを愛しいと
思った事があっただろうか。彼の顔を見つめ、そっと髪をなでていると、眠っているはずの彼の手が
伸びて自分の手を捕らえる。
どうした、と呼びかけようとすると、彼がぼんやりと目を開けてこちらを見た。
その視線が何かを探すように宙を彷徨う。虚ろな眼差しに胸がきりきりと痛むのを感じる。衝動の
ままに彼の身体を抱き寄せると、ああ、と、彼が胸の中で小さな息を漏らす。彼の目からこぼれる
涙が胸を濡らす。ぎゅっと細い身体を抱きしめてやると、震える身体は小さく誰かの名を呼ぶ。
目をきつくつぶり、奥歯を噛み締めながら、それでも彼を抱く腕に力を込めた。
いいんだ。それでもいい。たとえ今は他の男の名を呼んでいようとも。
そう、彼はもういないのだから。彼がこの少年を守ってやる事はもうできないのだから。
だから。
だから、と、伊角は自分に言い聞かせるように言う。
「何も、おまえは何も思い煩らう事はない。俺が守ってやる。
誰にも、おまえを傷つけさせたりしない。
おまえを守れるのは俺だ。俺だけだ。だから、」
だから、他の男になどその身体を預けるな。
他の男におまえを抱かせるな。
おまえは俺のものだ。俺だけのものだ。


(22)
半ばまだ眠りの中にいるようなぼんやりとした意識の中に届いた言葉が、混乱を呼んだ。
「守る」?
誰が、誰を、守るのだ?
よく似た言葉を前に聞いた事がある。
「俺がおまえの事は守ってやるから、ずっと一緒にいてやるからさ。」
そう言ったのは誰だった?
「だから誰かに苛められたら真っ先に俺に会いに来いよ。」
誰に向かって言った言葉だった?
そして自分は、今ここにいる自分は、一体何物だ?

「誰にも、おまえを傷つけさせたりしない。おまえを守れるのは俺だ。」
次いで聞こえた言葉に頭を振る。
なんだ、それは。
そんなもの、要らない。
守ってなんか欲しくない。
守りたかったのは自分だ。自分の方だ。
彼を守れなかった自分を、誰がどうやって守るって?
そんなものは要らない。庇護など必要ない。
傷つく事など恐れていない。傷が癒える事など望まない。

守ってやれなかった、大事なひと。
守るどころか、彼がどのような目にあって、どのような思いで自分を訪ねてきてくれたのか、気付き
もしなかった。
あの時俺は嬉しかった。幸せだった。
佐為が俺に会いに来てくれて、俺を頼ってくれて。そして優しくしてくれて。初めて俺を抱きしめて
くれて、俺を愛してくれて。
俺は幸せだった。
同じ時に佐為が、どんな思いをしていたかも知らずに。


(23)
辛そうな目をしていた。
どうしてそんな顔をするのだろうと思っていた。
内裏で何か嫌な事があったのか。貴族どもの妬み嫉みから嫌がらせでも受けたのか。
そんな風に軽く考えていた。
「苛められたら俺の所に来いよ。慰めてやるから。泣きたかったら頭撫でてやるから。」
そんな事を言った。
でもそんな簡単な事じゃなかったんだ。
俺は何も知らなかった。
政治というものがどんなものなのか。
雅できらびやかに見えた宮中にどんな闇が渦巻いていたのか。
妬みと欲が、羨望と憎悪が入り混じった時、ひとはどれ程まで醜く汚くなれるものなのか。


どうして、どうしてだ、佐為。
なぜ一言、言ってくれなかった。
なぜ、俺には何も言わずに、俺を置いてひとり逝ってしまったんだ。
そんなに俺は頼りにならなかったのか。
俺は何も知らなくて、俺は馬鹿で無力な子供だった。何の力も持ってなかった。
だから佐為は何も言わなかった。何も言わずにひとりでいってしまった。

知っていたらどうしたろう。
わかっていたら引き止められただろうか。
あの時俺がちゃんとわかっていたら。
そうしたら何かできただろうか。何か言えただろうか。
どうしてももう都にはいられないと言うのなら、それなら二人でどこかに行こう。
そんな風に言えただろうか。


(24)
一緒に逃げよう。
都なんて、貴族なんて、どうでもいいじゃないか。
おまえには碁があればいいし、俺にはおまえがいればいい。
おまえは碁を打つ以外は何にもできない奴だけど、俺が魚をとったり、畑を耕したりするから、それ
で何とかなるだろう。俺の碁の腕じゃおまえには物足りないかもしれないけど。
そうだ。あいつがいいって言えば、賀茂も一緒に連れてこう。そうしたらおまえはアイツと打ってられ
るし、それに賀茂がいたら怖いのものなんてないさ。盗賊やひとを襲う獣は俺の剣でぶった切って
やればいいし、妖怪や鬼が出たら、賀茂が祓ってくれる。

おまえがつまんないズルをしたなんて言う奴なんか、どうでもいいじゃないか。そんな奴は放って
おけばいい。おまえはそんな事する奴じゃないって、俺は知ってるから。だから、おまえを責める奴
らなんて、おまえをわかってない帝なんて、都なんて、こっちから捨ててやれ。
捨ててしまえ。そして一緒に都を出よう。
俺とおまえと二人なら大丈夫だ。
二人じゃ心細かったら賀茂も誘ってみよう。


(25)
「ふふ…そうですね。」
そうだろう?
「近衛が言うと、本当に出来そうな気がします。」
気がする、じゃなくてさ。ほんとにすれば良いんだよ。
「連れて行ってくれるのですか?」
ああ、連れてってやるとも。
「でも……本当に大丈夫でしょうか?」
大丈夫さ。
「……近衛は……怖くはないのですか?」
何が?こら、俺の剣の腕を疑うのか?あん時よりもずっと腕を上げたんだぜ。
怖いものなんか何もないさ。
「いつの間に、そんなに頼もしく成長したんでしょう。」
当たり前さ。俺だっていつまでも子供じゃないんだから。さ、行こう、佐為。
「ああ、近衛、」
な、なんだよ…佐為……
「大好きですよ、ヒカル。本当に、私はあなたのことが…」
うん……俺も、俺も佐為が大好きだ。
「大好きです。私にとって一番大切な人です。ヒカル。だから……」
佐為?……佐為、…どうしたんだ……?


(26)
「だから、ヒカル……」
それで夢は途切れてしまった。
目を開ける前から自分が泣いている事に気付いていた。
だから、と彼は続けて何を言いたかったのだろう。
夢ならば、ずっと夢見ていたかった。
醒めてしまいたくなかった。
ずっとあのまま夢を見続けていたかった。
それでもやはり夢は夢に過ぎず、目を覚ませば傍らに彼の姿は無く、彼があのように微笑むのを
見ることはもうできない。
彼はもういない。どこにもいない。
目覚めてしまえば現実は容赦なくヒカルに事実を思い知らせ、ヒカルの頬を涙が一筋流れ落ちる。
――佐為。
夢に見た幸せそうな微笑みを思い出そうと目を閉じ、抱きしめた広い胸を思って手を伸ばす。
けれど両の手は虚空を彷徨い、目の裏に浮かんだのは夢の中の優しい笑顔でなく、最期に見た、
白い静かな面。もう決して目を開けることの無い、冷たく冷えた白い面。
それでも彼の口元には僅かに笑みが浮かんでいるように思えた。まるで、ほんのひと時、眠りに
ついているかのようだった。声をかければ目を覚ますのではないかと思われるほどだった。

水は冷たかっただろうに。水の中は苦しかっただろうに。
俺は何もしてやれなかったのに。
なのにどうしてそんな風に笑ってるんだ。

どうして最後に俺に逢いに来たんだ。
守ってやるなどと大きな口を叩きながら何もできなかった。何も知らなかった。
おまえは俺に何を望んでいた?どうして欲しかった?俺はどうしたらよかったんだ?


(27)
佐為を求めて伸ばした腕が、他の誰かに抱きとめられる。
温かい胸。佐為じゃない、温かい身体。最後に抱きしめた佐為の身体は冷たかった。あんまり冷
たくて、抱きしめた俺の身体まで冷えきってしまうほどに冷たくて、だから俺は温もりを求めてこの
胸に抱きついた。佐為じゃないことはわかっていたのに。
その人が何か言っている。指が頬を撫で、涙を吸い取るように温かい唇が目元にそっと触れる。
その腕を、くちづけを、確かに温かいと感じているのに、それなのになぜだか全てがどこか遠くの
世界の事のように思えた。言い募る声は聞こえているのに、言葉の意味が届いてこなかった。

己の身体を抱きしめている力強い腕。温かい胸。優しい声。
それでも、この腕は佐為じゃない。
佐為はもういない。どこにもいない。
あんな冷たくなってしまった佐為なんて知らない。あんなのは佐為じゃない。
佐為じゃないのに、佐為じゃない事はわかってるのに、それなのに俺はどうして。

この腕が佐為でない事など知っていた。知ってて、わかっててそれでも縋りついたのは俺だ。
「ごめんなさい…」
思うよりも先に言葉が零れ落ちた。
「なんで、なんでおまえが謝るんだ…?」
「ごめん…ごめんなさい……」
「……何を…謝ってるんだ?わからない……。」

「おまえが謝らなきゃならないような事は何も無い。だから、もう、泣くな。」
子供をあやすような声が降ってくる。優しく背を撫でる手を感じる。
けれどそれでもヒカルは彼の声に耳を閉ざし、小さく頭を振って、涙を溢すだけだった。


(28)
それでも日は昇り、朝は訪れる。
まだ眠っているヒカルの身体を名残惜しげにそっと抱きしめ、額に軽いくちづけを落としてから、伊角
は立ち上がり、後ろ髪を引かれる思いをようよう断ち切って、それでも幾度も振り返りながら、彼の
屋敷を後にした。
牛車に揺られながら、昨夜の彼を思う。
自分には彼がわからない。
それでも、彼を愛しく思う、その心には偽りは無いのだと、信じたかった。
例え彼が自分一人のものではなくとも、多分、自分にそうしたのと同じように、寄り添う人がいれば
それが誰でも――自分でも、和谷でも、他の男でも――縋りつくのだろうと、知っている。
それを苦く思う心が無いはずが無い。それでも。
彼が悪いのではない。ただ、今は、きっと彼は混乱しているだけなのだ。大切な人を失って、失った
重みに耐え切れずに、ただ傍にいる人に縋ってしまうのだろう。そんな彼をどうやって責められよう。
だから彼を憎いなどと思っていない。愛おしいだけだ。
それ以外の想いなど、ある筈が無いのだ。

牛車の歩みの遅さに、苛つきを感じる。
このような苛立たしさなど、感じた事など無かった。まるで自分が自分でないようだ。
重く、けれど焼け付くような胸の苦しさなど、味わった事など無かった。
早く、早く一日が過ぎれば良い。務めなど放り出して、今日一日だけでも彼の傍にいればよかった。
目を離してしまえば、その瞬間に彼がどこかに行ってしまうような気がして、不安でならなかった。
なんて、この歩みは遅いのだろう。
早く、もっと早く進んでくれないと、その分、彼の許へ戻るのが遅くなってしまう。

焦燥感に苛立ちながらも、伊角は自分の苛立ちの根本に蓋をする。
彼がどこかに行ってしまうのが不安なのではない。自分がいなければ、自分がいない時に他の者
が彼の傍にいるのが不安なのだ。そうして彼が自分以外の者に縋りつくのが許せないのだ。
けれど伊角はそのような思いに見て見ぬふりをする。
憎んでなどいない。許せないなどと思ってはいない。彼を愛している。だから彼のあるまま全てを
受け入れて彼を護ってやりたい。彼を護れるのは自分一人だ。
他に誰も、彼を護れる者など、理解できる者などいる筈がないのだ。


(29)
目を覚ました時には昨夜寄り添って眠った人の姿は無く、既に日は高く昇っていた。
戸を開けると秋の爽やかな風が室内に入り込む。
空は晴れて青く高く、重く澱むヒカルの心持ちと裏腹に、どこまでも高く透き通っていた。
それでも日毎に冷たさの増してきた秋風に、ヒカルは身を震わせ、室内に戻ろうとした時、誰か人の
気配を感じて振り返った。

彼は無言のままヒカルの横を通り抜けて室内に入り、どっかりと腰を下ろして、ヒカルを見上げた。
つられるようにヒカルが彼の向かいに腰を下ろすと、彼は唐突に口を開いた。
「おまえ、アイツが好きなのか?」
「え…?」
「アイツが好きなのか?答えろよ。オレよりもあいつのが好きなのか?あいつの方がいいのか?
答えろよ。」
「そ…んなの…」
「どっちの方が好きなんだ、おまえは。」
「どっちが、なんて…」
好きなのか、なんて、そんな事。好きなのは。
「大好きですよ、ヒカル。」
好きなのはたった一人。
抱きしめて欲しいのもたった一人。
優しい微笑み。
「……佐為…」
小さく溢したヒカルの言葉を耳にして、和谷の顔が大きく歪む。奥歯をぐっと噛み締めて、怒りを堪える。
まだ、まだそれでもその名を言うのか。
「佐為殿は…もういねぇ。今、おまえの前にいるのは俺だ。俺を見ろ。俺を、見ろよ……っ!」
両手でヒカルの肩を掴んで強く揺さぶる。けれどヒカルは目をきつく瞑って首を振り、和谷の視線から逃
れるように顔を背けた。
「ヒカルッ!」


(30)
悔しい。
悔しい、悔しい。どれほど想っても、それでも超えられないのか。
応えてくれたと思ったのは身体だけで、心はそれでもあの人のものなのか。
それならばなぜ。
「だったらどうして俺に抱きついたりするんだよ!どうして伊角さんに抱かれたりするんだよ…っ!」
「だ、って、」
「どうしてなんだよ!俺なんか好きじゃないっていうんなら、」
「ごめ…」
「謝るなよッ!!」
握り締めた手から彼の震えが伝わる。大きな瞳は更に大きく見開かれ、涙を溜めた睫毛がやはり
震えていた。この手も、眼差しも、自分のものではないのに、自分など求めてもいないのに、なぜ
自分の方はこんなにも彼を求めてやまないのだろう。
彼の眼差しを受け止めているのが辛くて、視線を断ち切るように彼の肩に顔を埋めて、その細い
身体をかき抱いた。
「ヒカル……ヒカル、好きだ。好きなんだ。おまえが。」
ほの甘い彼の体臭に、髪の香りに眩暈がする。まだ、昨日までは、彼が逝ってしまった人を未だ想っ
ていると知っていても、それでもまだ耐えられた。こうして月日を重ねてゆけばいつかはこちらを向い
てくれるのだろうと、他愛もなく信じていた。
少なくとも、寒さに震える彼を抱き、冷たく冷えた彼の身体を暖めている自分は、彼にとっても何らか
の特別な想いがあるのだろうと、根拠もなく信じていた。それが自分だけではないなどと、思いつく筈
も無かった。
「ヒカル……」
彼の名を呼びながら首筋に唇を寄せると、彼の身体がぴくりと震えた。
拒絶されても構わぬ、そう思っていたのに、拒絶もされない事が、昨夜から彼の中で巣食っていた獣
を目覚めさせた。彼の身体を床に倒し、襟元を強引に開くと、そこには別の男の口付けの痕が鮮烈
に残されていた。白い肌に残る紅い標しに、カッと頭の中が燃え上がった。怒りのままに引き裂かん
ばかりに彼の衣を剥ぎ取った。



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