日記 211 - 215
(211)
アキラが出て行った後、ヒカルは暫くボンヤリしていた。自分の部屋と同じくらい、
馴染んでいる場所なのに、何故か少しよそよそしい気がした。
アキラが買ってくれたヨーグルトをとりだした。
「また、こんなに買ってきて………」
無糖やら、フルーツ入りやら、それ以外、なにやら似たような名前のヨーグルトが、山ほど
出てくる。
元気なときでもこんなに食べたら、お腹を壊してしまう。
「アイツは限度ってモンを知らネエよな…」
プレーンタイプのヨーグルトを一つとって、蓋をめくる。甘酸っぱい匂いが鼻腔をくすぐった。
スプーンの上の小さな山をヒカルは見つめた。混じりけのない白が、目に痛い。
「バカじゃネエの………」
何で、こんなことで一々傷ついた気分になるのだ。綺麗な白が、ヒカルの汚れを余計に
目立たせているような気がした。
それを口に運んで、目の前から消した。カップの中にスプーンを突っ込んで、敵のように
すくい上げては、頬張った。
―――――だって、オレは悪くない………だから……落ち込む必要なんてナイ………
それなのに、勝手に涙が出てきた。ヒカルはしゃくり上げながら、ヨーグルトを嚥下した。
(212)
何をするわけでもなく、ただ無為に時間が過ぎていく。碁盤に向かう気にもならず、かといって、
テレビを見て暇を潰す気にもなれない。
ヒカルはチラチラと時計を気にしていた。五分と進んでいない針を見て溜息が出た。
「……水でも飲も………」
立ち上がろうとして、クラリときた。そのまま、床に顔を伏せ、暫くじっとしていた。徐々に
視界が明るくなって、ヒカルは漸く顔を上げた。手足の先が冷たい。少し、休んだ方がいいようだ。
ヒカルは寝室のドアを開け、アキラのベッドに横になった。そこにはいつもの匂いが
なかった。取り換えられたばかりの真新しいシーツには、自分の残り香しかない。
セックスをするときもしないときも、ヒカルはいつもアキラと一つの毛布にくるまって眠った。
アキラの胸元に鼻先を突っ込んで、その石鹸の匂いや彼自身の香に包まれていると安心できた。
ヒカルは、自分がどんなにアキラを求めているか改めて知った。怖いという気持ちと抱かれたい
気持ちがヒカルを交互に揺さぶっている。
ギュッと目を閉じて、枕に顔を押しつけた。だんだん息が苦しくなって、ヒカルは仰向けに
転がった。ハアハアと荒い息を吐く。少しずつ呼吸と気持ちが落ち着いてきた。
そうして、ヒカルは漸く目を開けた。涙の滲んだ視界の端に、部屋の隅に積まれたモノが映った。
マットレスとタオルケット。昨日、アキラはそれで眠った。
ヒカルは綺麗に畳まれたそれらを広げて、その上に身体を横たえた。
―――――塔矢の匂いだ………
いつもの香。安心する。ヒカルはいつの間にか眠ってしまっていた。
(213)
「ただいま………」
玄関から、声をかけたが返事はない。帰ってしまったのかと一瞬慌てたが、スニーカーは
朝見たときと同じ位置に残っていた。
声をかけながら、寝室を覗いた。
「進藤………?」
ヒカルは眠っていた。マットレスの上でタオルケットにくるまって…………。
「進藤………」
傍らに跪いて、寝顔を覗く。
ヒカルも自分と同じなのだ。触れたくて、触れるのが怖くて………もっとも、自分とヒカルでは
意味合いが少し違うだろうが…………。
どうすればいいのか自分にはまるでわからない。優しくすればいいのか…突き放せばいいのか………
ダメだ!突き放すなんて出来ない……絶対に出来ない!優しくしたい……ヒカルが安心できるように……
少しずつでいいから………ヒカルが以前のように………笑ってくれたら………
自分がガマンすればいいのだ。そうしたら、いつかヒカルも………きっと………
アキラはヒカルを起こさないように、そっと部屋を出て行った。
(214)
ドアの隙間から漏れる灯りに、ヒカルは目を覚ました。膝で這って、灯りの方に進む。
ドアの向こうを覗くと、アキラの後ろ姿が目に入った。
その前には、きっと碁盤があるに違いない。対局のときは、苛烈なほどの激しさで相手を
翻弄するアキラだが、こういう風に一人で棋譜並べをしているときは酷く静かで、深い
森の奥に隠された湖水を連想させた。
ヒカルは急に泣きたくなった。ヒカルはいつもそこにいたのに………いつもアキラの
向かいに座って、烈しくて、それでいてどこか静かな瞳を好きなだけ眺めていられたのに……。
その背中に向かってヒカルは念じ続けた。
―――――こっち向けよ………こっち向けったら………!
ヒカルがいくら願っても、アキラは振り向いてくれなかった。
―――――オレ、一生アイツの前に立てないの?こうやって陰から見てるだけで、満足して
いることしかできないの?
………………アイツの方から手を差し出してくれるのを、ただ待つことしかできないの?
イヤだ…………そんなのイヤだ……!アイツを振り向かせたくて、ずっと頑張ってきたんだ。
あの瞳を自分に向けたくて、ずっとずっと必死になってやってきたんだ!
――――――振り向いて………お願いだから………!オレを見て………そうしたら………
彼の背に飛びつきたい衝動に駆られる。そのとき、アキラが振り向いた。ヒカルは
驚いて息が止まりそうになってしまった。
「起きたの?いいものがあるよ………ホラ、コレ………」
そう言って、アキラが碁盤の脇に置いていた小さな紙袋をたぐり寄せた。彼はドアのところに
突っ立ったままのヒカルに、その袋を手渡した。
請われるままに封を開けると小さな鍵が転がり出てきた。
「今日、作ってきたんだ………」
いつでも来ていいからね………キミは特別だから………
アキラに最後まで言わせずに、ヒカルはその唇を塞いだ。
(215)
一瞬何が起こったのか理解できなかった。ヒカルが突然抱きついてきたかと思った瞬間、
キスをされた。
久しぶりに味わう彼の唇は相変わらず柔らかくて甘かった。どうしたらいいのかわからず
宙を彷徨わせていた腕は、気が付けば彼をしっかりと抱きしめていた。
静かに唇が離された。アキラは、もう少しヒカルを味わいたかったので、名残惜しい気がした。
だが、それ以上に彼の顔を見たかった。長い間、彼を正面から見ることが出来なかったから………。
あの時以来、ヒカルはアキラを避けていて、寂しげな横顔か俯いた姿しか見せてくれなかった。
「…………進藤…キミ…」
開きかけた唇を再び塞がれた。今度は、すぐに離れた。
「………オレ……オマエが好き………大好きなんだ………」
ヒカルがしがみついてきた。痩せた彼の身体のどこにこんな力が残っているのだろうか……
と不思議に思うほど強く抱きしめられた。
「……お願い……オマエの側にいたい………ずっと一緒にいたいんだ………」
泣きながら、アキラの肩に顔を伏せるヒカルを強く抱き返した。
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