日記 214 - 216


(214)
 ドアの隙間から漏れる灯りに、ヒカルは目を覚ました。膝で這って、灯りの方に進む。
ドアの向こうを覗くと、アキラの後ろ姿が目に入った。
 その前には、きっと碁盤があるに違いない。対局のときは、苛烈なほどの激しさで相手を
翻弄するアキラだが、こういう風に一人で棋譜並べをしているときは酷く静かで、深い
森の奥に隠された湖水を連想させた。
 ヒカルは急に泣きたくなった。ヒカルはいつもそこにいたのに………いつもアキラの
向かいに座って、烈しくて、それでいてどこか静かな瞳を好きなだけ眺めていられたのに……。

 その背中に向かってヒカルは念じ続けた。
―――――こっち向けよ………こっち向けったら………!
ヒカルがいくら願っても、アキラは振り向いてくれなかった。
―――――オレ、一生アイツの前に立てないの?こうやって陰から見てるだけで、満足して
いることしかできないの?

………………アイツの方から手を差し出してくれるのを、ただ待つことしかできないの?

 イヤだ…………そんなのイヤだ……!アイツを振り向かせたくて、ずっと頑張ってきたんだ。
あの瞳を自分に向けたくて、ずっとずっと必死になってやってきたんだ!

――――――振り向いて………お願いだから………!オレを見て………そうしたら………

 彼の背に飛びつきたい衝動に駆られる。そのとき、アキラが振り向いた。ヒカルは
驚いて息が止まりそうになってしまった。
「起きたの?いいものがあるよ………ホラ、コレ………」
そう言って、アキラが碁盤の脇に置いていた小さな紙袋をたぐり寄せた。彼はドアのところに
突っ立ったままのヒカルに、その袋を手渡した。
 請われるままに封を開けると小さな鍵が転がり出てきた。
「今日、作ってきたんだ………」
いつでも来ていいからね………キミは特別だから………
 アキラに最後まで言わせずに、ヒカルはその唇を塞いだ。


(215)
 一瞬何が起こったのか理解できなかった。ヒカルが突然抱きついてきたかと思った瞬間、
キスをされた。
 久しぶりに味わう彼の唇は相変わらず柔らかくて甘かった。どうしたらいいのかわからず
宙を彷徨わせていた腕は、気が付けば彼をしっかりと抱きしめていた。
 静かに唇が離された。アキラは、もう少しヒカルを味わいたかったので、名残惜しい気がした。
だが、それ以上に彼の顔を見たかった。長い間、彼を正面から見ることが出来なかったから………。
 あの時以来、ヒカルはアキラを避けていて、寂しげな横顔か俯いた姿しか見せてくれなかった。
「…………進藤…キミ…」
開きかけた唇を再び塞がれた。今度は、すぐに離れた。
「………オレ……オマエが好き………大好きなんだ………」
ヒカルがしがみついてきた。痩せた彼の身体のどこにこんな力が残っているのだろうか……
と不思議に思うほど強く抱きしめられた。
「……お願い……オマエの側にいたい………ずっと一緒にいたいんだ………」
泣きながら、アキラの肩に顔を伏せるヒカルを強く抱き返した。


(216)
 ベッドにヒカルを横たえる。しかし、アキラは迷っていた。ヒカルが欲しい。ヒカルを抱きたい。
だけど…………本当に大丈夫なのだろうか………ヒカルの言葉を素直に受け入れていいのだろうか………
もし…もしも、今以上にヒカルが傷ついてしまったら………そう思うと怖かった。怖くて触れられない。
抱きしめたヒカルは、少し力を入れただけで脆く崩れそうなほどやせ細っていた。
「本当にいいの?」
言った瞬間しまったと思った。ヒカルの身の上に起きたおぞましい出来事を自分が
知っているということを彼は知らない。不用意な一言で彼をまた傷つけてしまったのではと
自分を叱りつけた。沈黙がその場に落ちる。

 ヒカルは、暫く黙ってアキラを見つめていた。絶望も驚愕もなくただ深く静かな瞳の色だった。
「………うん…いいよ……して…」
目を閉じて、静かにヒカルは答えた。「早く」と、急かす唇が微かに震えている。
 ヒカルが覚悟を決めているのなら、自分もそれに従う。アキラは、恐る恐るヒカルに触れた。



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