平安幻想異聞録-異聞- 215 - 219
(215)
こうなるとムカデというよりは節のある蛇というほうが近い。
それは、朝日の明るさに苦悶するように身をよじると、無数の足を
うごめかせて走り、薮の中へと逃げ込もうとした。
アキラがすかさず、空に魔物封じの印を指で描いた。
大ムカデが、見えない何かに縛られて、動きを止める。
アキラは、狩衣の袂から小刀をとりだした。
「呪を返します」
破られた呪詛は、同等の力を持って、それを施した術者の元に返る。
陰陽の道の定めだ。
思い当たって、佐為は心配そうにアキラを見た。
「呪詛を施した者の近くにいるだろうヒカルは、大丈夫でしょうか?」
「これだけ、強い呪の力が返されるのです。確かに、近衛にも害が及ばない
よう、前もって手を打って置いたほうがいいかもしれません」
言って、アキラは空に向かって小さく誰かの名前をつぶやいた。すぐに
上空に一羽の鳥が現れる。逆光でよく見えなかったが、佐為にはその鳥が
カラスのように思われた。鳥にアキラが何事かを命令する。
空にひとつ輪を描いてから、鳥は飛び去った。
「では…」
アキラがあらためて大ムカデに歩み寄り、小刀を鞘から引き抜いた。
その刃が、身動きできないその禍々しい生き物の頭部に垂直に突き
立てられた。
ムカデがギチギチと断末魔の鳴き声をあげて、身をうねらせた。
竹林を、ゴウと音を立てて、強い風が吹き抜けた。
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東の空が明け初める少し前、その部屋の真ん中にヒカルはひとりで
転がっていた。
精液だか体液だかわからない、透明な粘液に、体中をドロドロにまみれさせて。
いつもの侍女が、身動きしないヒカルを助け起こし、その汚れきった体を、
やはり無表情のまま洗い清めた。
ヒカルは気を失ってはいなかった。ただその薄く開かれた目は、
疲れきったようにぼんやりと何処も見ておらず、侍女のなすがままに
なっていた。
着衣を整えて貰った後、ヒカルは朦朧とした意識のまま、新しいものに
取り換えられた褥の上で眠りに落ちた。
夜が明けてから、再び侍女が出仕のための着替えを持ってヒカルの元にきたが、
その時すでにヒカルは高い熱を発していた。
こうも連日連夜責められて、今まで大丈夫だった方がおかしいのだ。
それに加え、昨夜の魔物に体だけでなく、心の奥までも蹂躙された感覚が、
ヒカルの疲弊をより重いものにしていた。
心の弱い者ならとうに正気を失っているだろう状態だった。
ヒカルのその様子を確認して、さしもの座間も今日は無理に警護役を
務めろとは言わず、他の衛士達を伴って内裏に向かった。
その朝の屋敷の喧騒を耳にしながら、ヒカルはうとうとと再び目を閉じた。
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それから、どれくらい時間がたったろう?
ヒカルは異様な息苦しさに目が覚めた。
熱のせいではない。胸の上に何かを乗せられているような、そんな
息苦しさだ。
御簾の隙間から部屋に差し込む陽の光りの角度や、室内の温度からしても、
先ほど眠りについてからそんなに時間は経っていないはずだ。
まだ、朝といっていいだろう。
(なのに、この空気は……?)
瘴気、というのだろうか。
何か匂いがするわけでもない。また気配がするわけでもない。ただ、
「嫌な感じ」がするとしかいいようのないような――。
すいっと、なめらかに御簾が巻き上げられて、そこに桔梗襲ねの十二単衣を
まとった美しいひとりの女がたっていた。
頭に一昨日の夜、自分の身を貪った妖しの女の事が浮かぶ。
思わず身構えたヒカルに、女は軽く一礼した。
「近衛殿にお渡しするものがあり、やって参りました」
漂う瘴気はこの女からのものではない。
瞳の瞳孔の形もちゃんと人と同じで、黒くキラキラとしている。
どうやら、妖魔の類いではないようだ。
そういえば、その鋭利な面ざしがどこか賀茂アキラに似ているのは気の
せいだろうか?
「あんた、誰?」
「近衛殿とは、一度会った事がございますが、覚えてはおられますまい。
今日はこれを近衛殿にお渡しするためにこの姿でまいりました」
そう言って、女が懐中からとりだしたのは、一本の剣。
柄から鞘にかけて、明るい銅色の上に薄く龍の文様が浮かび上がっている。
それは、アキラや佐為と知りあった妖怪退治の折り、ヒカルに
預けられていたあの太刀だった。
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茫然としながら、手渡されたそれを見るヒカルに女が告げた。
「賀茂様からのご伝言でございます。呪は破られたり、御身は
それで守られたし、と」
女はそれだけ言うと、十二単衣を来ているとは思えない軽やかさで
身をひるがえす。
と、思った瞬間にはそこにはすでに女の姿はなく、ただ、カササギが
一羽、つややかに漆黒の羽根を羽ばたかせ、屋根を越えて朝日の中を
西の方へと飛んで消えた。
呪は破られたとき、その呪を施した本人に、同等、あるいはそれ以上の
力となって返ってくるという。
ならば、そういう事なのだろう。
アキラと佐為はなんらかの手段で、ヒカルに掛けられた蠱毒の呪を解き、
返すことに成功したのだ。
あの、肉の蛇が、より強大な力をもって、座間と呪詛を施した陰陽師を
喰らいにくるのだ。
これは、アキラがそれを予見して、その座間のすぐそばに居る事になるだろう
ヒカルに「自分の身を守れ」と言ってくれているのだろう。
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「そうだな、賀茂…」
ヒカルはつぶやいた。あの肉の蛇は、座間達だけでなく、元々の標的であった
自分にも確実に向かってくるだろう。自分の足にはまだ、あの蠱毒の蛇を引き
寄せる印が刻まれたままだ。それは間違えようのない予感だった。自分は
あいつともう一度まみえ、決着をつけなくてはならない。
辺りを包む瘴気は、徐々に濃くなり、すでに重苦しいほどになっていた。
ヒカルは、その青龍の細工の施された太刀の柄を握りしめた。
懐しい感触だった。
そして、そう思った自分に驚いた。
これを持って、佐為やアキラとともに京の妖しと戦ったのは、懐しいと思うほど
昔の事ではない。たった半年前のことなのだ。
佐為とアキラに出会ったのも、たかが半年前。
なのに、それが恐ろしく遠い日の出来事がするのは何故だろう。
少し笑った。
どこかしんみりとしてしまった思考を頭を振って払い、ヒカルは
調伏刀を強く握りなおす。
――終わりにしよう。全てを。
あの竹林の夜以来、ヒカルを苛み続けた悪夢を、この白刃で断ち切るのだ。
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