平安幻想異聞録-異聞- 216 - 220


(216)
東の空が明け初める少し前、その部屋の真ん中にヒカルはひとりで
転がっていた。
精液だか体液だかわからない、透明な粘液に、体中をドロドロにまみれさせて。
いつもの侍女が、身動きしないヒカルを助け起こし、その汚れきった体を、
やはり無表情のまま洗い清めた。
ヒカルは気を失ってはいなかった。ただその薄く開かれた目は、
疲れきったようにぼんやりと何処も見ておらず、侍女のなすがままに
なっていた。
着衣を整えて貰った後、ヒカルは朦朧とした意識のまま、新しいものに
取り換えられた褥の上で眠りに落ちた。
夜が明けてから、再び侍女が出仕のための着替えを持ってヒカルの元にきたが、
その時すでにヒカルは高い熱を発していた。
こうも連日連夜責められて、今まで大丈夫だった方がおかしいのだ。
それに加え、昨夜の魔物に体だけでなく、心の奥までも蹂躙された感覚が、
ヒカルの疲弊をより重いものにしていた。
心の弱い者ならとうに正気を失っているだろう状態だった。
ヒカルのその様子を確認して、さしもの座間も今日は無理に警護役を
務めろとは言わず、他の衛士達を伴って内裏に向かった。
その朝の屋敷の喧騒を耳にしながら、ヒカルはうとうとと再び目を閉じた。


(217)
それから、どれくらい時間がたったろう?
ヒカルは異様な息苦しさに目が覚めた。
熱のせいではない。胸の上に何かを乗せられているような、そんな
息苦しさだ。
御簾の隙間から部屋に差し込む陽の光りの角度や、室内の温度からしても、
先ほど眠りについてからそんなに時間は経っていないはずだ。
まだ、朝といっていいだろう。
(なのに、この空気は……?)
瘴気、というのだろうか。
何か匂いがするわけでもない。また気配がするわけでもない。ただ、
「嫌な感じ」がするとしかいいようのないような――。
すいっと、なめらかに御簾が巻き上げられて、そこに桔梗襲ねの十二単衣を
まとった美しいひとりの女がたっていた。
頭に一昨日の夜、自分の身を貪った妖しの女の事が浮かぶ。
思わず身構えたヒカルに、女は軽く一礼した。
「近衛殿にお渡しするものがあり、やって参りました」
漂う瘴気はこの女からのものではない。
瞳の瞳孔の形もちゃんと人と同じで、黒くキラキラとしている。
どうやら、妖魔の類いではないようだ。
そういえば、その鋭利な面ざしがどこか賀茂アキラに似ているのは気の
せいだろうか?
「あんた、誰?」
「近衛殿とは、一度会った事がございますが、覚えてはおられますまい。
 今日はこれを近衛殿にお渡しするためにこの姿でまいりました」
そう言って、女が懐中からとりだしたのは、一本の剣。
柄から鞘にかけて、明るい銅色の上に薄く龍の文様が浮かび上がっている。
それは、アキラや佐為と知りあった妖怪退治の折り、ヒカルに
預けられていたあの太刀だった。


(218)
茫然としながら、手渡されたそれを見るヒカルに女が告げた。
「賀茂様からのご伝言でございます。呪は破られたり、御身は
 それで守られたし、と」
女はそれだけ言うと、十二単衣を来ているとは思えない軽やかさで
身をひるがえす。
と、思った瞬間にはそこにはすでに女の姿はなく、ただ、カササギが
一羽、つややかに漆黒の羽根を羽ばたかせ、屋根を越えて朝日の中を
西の方へと飛んで消えた。
呪は破られたとき、その呪を施した本人に、同等、あるいはそれ以上の
力となって返ってくるという。
ならば、そういう事なのだろう。
アキラと佐為はなんらかの手段で、ヒカルに掛けられた蠱毒の呪を解き、
返すことに成功したのだ。
あの、肉の蛇が、より強大な力をもって、座間と呪詛を施した陰陽師を
喰らいにくるのだ。
これは、アキラがそれを予見して、その座間のすぐそばに居る事になるだろう
ヒカルに「自分の身を守れ」と言ってくれているのだろう。


(219)
「そうだな、賀茂…」
ヒカルはつぶやいた。あの肉の蛇は、座間達だけでなく、元々の標的であった
自分にも確実に向かってくるだろう。自分の足にはまだ、あの蠱毒の蛇を引き
寄せる印が刻まれたままだ。それは間違えようのない予感だった。自分は
あいつともう一度まみえ、決着をつけなくてはならない。
辺りを包む瘴気は、徐々に濃くなり、すでに重苦しいほどになっていた。
ヒカルは、その青龍の細工の施された太刀の柄を握りしめた。
懐しい感触だった。
そして、そう思った自分に驚いた。
これを持って、佐為やアキラとともに京の妖しと戦ったのは、懐しいと思うほど
昔の事ではない。たった半年前のことなのだ。
佐為とアキラに出会ったのも、たかが半年前。
なのに、それが恐ろしく遠い日の出来事がするのは何故だろう。
少し笑った。
どこかしんみりとしてしまった思考を頭を振って払い、ヒカルは
調伏刀を強く握りなおす。
――終わりにしよう。全てを。

あの竹林の夜以来、ヒカルを苛み続けた悪夢を、この白刃で断ち切るのだ。


(220)
熱に火照る体を奮い立たせ、ヒカルは立ち上がった。
蓄積された疲労が、ともすれば体を床に引きずり倒そうとするのを
こらえ、部屋を見渡す。
侍女が持って来てそのままになっている着替えが置いてあるのが目に入り、
ヒカルは夜着を脱いで、その狩衣を着込んだ。
朝の空気を吸って冷えた生地の感触がひんやりとして、ヒカルの感覚を
頭の隅までハッキリとさせてくれた。
気を引き締める。
腰に履いた調伏刀の柄に手をやり、手触りを確かめ、目を閉じた。
瘴気は、今や大気自体が粘度をましたように感じるほど、濃い。
門の方で騒ぎが起こった。
廊下や棟を忙しく行き来し始めた侍女達のひとりを捕まえて訊くと、
座間が内裏での評議の最中に具合が悪くなり、急いで帰ってきたらしい。
屋敷の裏手で悲鳴が上がった。
衛士達が駆けつける足音と怒号がする。
「座間様を守りまいらせよ!」
バリバリと遠くで板塀が壊れる音がして、侍女達のせわしないが
てきぱきとした足取りが、慌てふためいたものに変わったのが部屋の
内にいても音でわかった。
ヒカルは調伏刀を鞘から抜き放った。
来る。
どこから?
突然、床が揺れる感じがしたかと思うと、天井の梁が落ちた。
慌ててよけたヒカルの目の前に、天井裏に巣くっていたらしい鼠が何匹も
落ちて来てチィチィと恐怖の鳴き声をあげながら逃げ出す。それを追うように
何か赤い塊が三つ四つ落ちて来た。シッポが付いている。よく見ればそれは
肉塊と化した鼠だった。
そして、梁が落ちた後の天井の暗い闇の隙間から、それが顔を覗かせた。
蛭にも似た口先からタラタラと唾液を垂らしながら。
口の周りの無数のヒゲをうごめかし。



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