平安幻想異聞録-異聞- 219 - 224
(219)
「そうだな、賀茂…」
ヒカルはつぶやいた。あの肉の蛇は、座間達だけでなく、元々の標的であった
自分にも確実に向かってくるだろう。自分の足にはまだ、あの蠱毒の蛇を引き
寄せる印が刻まれたままだ。それは間違えようのない予感だった。自分は
あいつともう一度まみえ、決着をつけなくてはならない。
辺りを包む瘴気は、徐々に濃くなり、すでに重苦しいほどになっていた。
ヒカルは、その青龍の細工の施された太刀の柄を握りしめた。
懐しい感触だった。
そして、そう思った自分に驚いた。
これを持って、佐為やアキラとともに京の妖しと戦ったのは、懐しいと思うほど
昔の事ではない。たった半年前のことなのだ。
佐為とアキラに出会ったのも、たかが半年前。
なのに、それが恐ろしく遠い日の出来事がするのは何故だろう。
少し笑った。
どこかしんみりとしてしまった思考を頭を振って払い、ヒカルは
調伏刀を強く握りなおす。
――終わりにしよう。全てを。
あの竹林の夜以来、ヒカルを苛み続けた悪夢を、この白刃で断ち切るのだ。
(220)
熱に火照る体を奮い立たせ、ヒカルは立ち上がった。
蓄積された疲労が、ともすれば体を床に引きずり倒そうとするのを
こらえ、部屋を見渡す。
侍女が持って来てそのままになっている着替えが置いてあるのが目に入り、
ヒカルは夜着を脱いで、その狩衣を着込んだ。
朝の空気を吸って冷えた生地の感触がひんやりとして、ヒカルの感覚を
頭の隅までハッキリとさせてくれた。
気を引き締める。
腰に履いた調伏刀の柄に手をやり、手触りを確かめ、目を閉じた。
瘴気は、今や大気自体が粘度をましたように感じるほど、濃い。
門の方で騒ぎが起こった。
廊下や棟を忙しく行き来し始めた侍女達のひとりを捕まえて訊くと、
座間が内裏での評議の最中に具合が悪くなり、急いで帰ってきたらしい。
屋敷の裏手で悲鳴が上がった。
衛士達が駆けつける足音と怒号がする。
「座間様を守りまいらせよ!」
バリバリと遠くで板塀が壊れる音がして、侍女達のせわしないが
てきぱきとした足取りが、慌てふためいたものに変わったのが部屋の
内にいても音でわかった。
ヒカルは調伏刀を鞘から抜き放った。
来る。
どこから?
突然、床が揺れる感じがしたかと思うと、天井の梁が落ちた。
慌ててよけたヒカルの目の前に、天井裏に巣くっていたらしい鼠が何匹も
落ちて来てチィチィと恐怖の鳴き声をあげながら逃げ出す。それを追うように
何か赤い塊が三つ四つ落ちて来た。シッポが付いている。よく見ればそれは
肉塊と化した鼠だった。
そして、梁が落ちた後の天井の暗い闇の隙間から、それが顔を覗かせた。
蛭にも似た口先からタラタラと唾液を垂らしながら。
口の周りの無数のヒゲをうごめかし。
(221)
その胴回りは人の太ももほどもあるだろうか?
それはあの肉の蛇が、座間の中に巣ぐう闇を吸い上げ、菅原の中の闇を
吸い上げ、そして、ヒカル自身の心の闇も吸い上げて、肥え太り、
成長した姿だった。
ヒカルは太刀を手に身構えた。
戦えるだろうか自分に? このところ十日以上、剣の鍛練はさぼっている。
その上、疲れきり、熱を持って感覚のおぼつかないこの体は、思った通りに
動いてくれるかどうか。
思いが巡る間もなく、それが天井からドサリと身を落としざま、
閃光のごとき動きで飛びかかってきた。
考えるより先に足が踏みだした。
風にひしいだ竹のように、しなやかな一閃。
両断されて、肉蛇の頭がゴロリと床に落ちた。
それはすぐにチリチリと干からびて、カサカサとした蝉の抜け殻の
ような空虚なものになる。
続いてもう一匹。真っ赤な口を大きく開け、天井から襲いかかってきた。
ヒカルはその異形の蛇の動線を読んで、その線上に太刀を水平に構える。
見事にその待ちかまえる刃の真正面に飛び込んだ蛇が上下に真っ二つに
引き裂かれ、それは一匹目と同じように、たちまち乾いて薄っぺらいものに
なった。
小さい頃から剣術を体に叩き込んでくれた祖父に、ヒカルは今こそ心の中で
感謝した。しばらくまともに剣をとっていないようなこの状況でも、体が
反射的に事態を判断して動く。
天井を振り仰ぐ。
壊れた天板の隙間にまだ幾匹ものそれが顔を除かせて、舌なめづりするように
ヒカルを見ていた。
ゴソリと床下でも気配が動いた。
まずい。どこから襲い掛かられるか分からない室内よりも、見通しのいい
庭に出たほうが分がいいかもしれない。
そう判断して、ヒカルが動こうとした矢先、ズシリと空気が重く肩に
のしかかった。
(222)
あの賀茂アキラの家で蛇達と睨みあった時と同じだ。やつらは自分を
金縛りにかけようとしているのだ。
恐る恐る腕を上げる。動く。
安心したヒカルは自分の手にある調伏刀の刃の根元に、赤い顔料で何か
文字か文様のようなものが書かれているのに気付いた。半年前、京の妖し退治
の折りにはなかったものだ。そして、すぐにヒカルは理解した。
おそらくこの事態を見越して、賀茂アキラがあらかじめ金縛り封じの印を
書いておいてくれたのだ。
(助かったぜ、賀茂!)
そのまま庭へ走り出ようとしたヒカルの目の前を人影が塞いだ。
廊下に逃げ遅れた女童と、その母親であろうヒカルが顔を知らない
侍女が一人。目の当たりにした異形の蛇の姿に身がすくんでしまって
いるのだ。その異形に破壊された天井が崩れ、柱が一本、軋む音を立てながら
その二人の上に倒れ掛かろうとしてた。
ヒカルは咄嗟に、腰に太刀の鞘を結びつけていた紐をほどき、その鞘を倒れて
くる柱のつっかえ棒にした。
ミシリと鞘の石突きの部分が廊下の床に僅かにめり込み、柱が倒れるのを
止めた。
「逃げて!早く!」
ヒカルの言葉に我に返った母子は門の方へと駆け出した。
続こうとしたヒカルの目の前の床板がたわんで破れ、そこから異形の
蛇が顔を出す。
(223)
シュルシュルと壊れた床板の隙間から身を滑り出させ、大口を開けて
ヒカルに飛びかかってきた。素早い動作でヒカルは柱のつっかえ棒にしていた
調伏刀の鞘を取り戻し、それで喉を守る。肉蛇はガチリと音をさせてその鞘に
噛みついた。その鞘をしっかり銜えたままの蛇の上に支えを失った柱と屋根が
音を立てて崩れ落ちた。
さて、当面の危急は逃れたが、崩れ落ちた柱と天井の板が積もってヒカルは
庭への退路を断たれた。
ヒカルは金茶の前髪を揺らして後ろを振り返った。太刀を正眼に構える。
ざっと目で数えただけでも十匹以上の大蛇が、追いつめた獲物を前に鎌首を
もたげている。
これは持久戦だ。
この調伏刀をもってすれば、一匹一匹を倒すのはさほど難しい事ではない。
だが例えて言うなら、大木の幹とも言うべき本体はどこかにあって、この
蛇達はその枝葉に過ぎないのだ。
その大元の命脈を断たない限り、斬り伏せなくてはいけない肉蛇の数には
際限がない。本来の体調であったら、戦ってゆうに一刻、頑張れば一刻半は
持つかもしれない。だが、萎えた下肢と、熱に侵された体ではいったい
どれほど持ちこたえられるのか。
せいぜいが半刻。
ヒカルの心に焦りが生まれたその時。
背にした退路を遮る瓦礫を飛び越えて、庭から二頭の白馬が乱入してきた。
ヒカルをかばうように、異形の大蛇たちとの間に立ちはだかったその馬の背に
跨がっていたのは、藤原佐為と賀茂アキラであった。
(224)
白馬は漆黒のたてがみと尾を持ち、首には、漆黒のおもがいと漆黒の
手綱がかけられていた。鞍はない。その裸の馬の白い背に身を預け、
佐為とアキラはその場に踊り込んで来た。
アキラが小さく自分にしか聞こえない程の声でつぶやきながら、一枚の
札を投げると、ヒカル達と大蛇の群れの間に青白い炎の壁が出来た。
「佐為殿! 早く!」
アキラの叫ぶ声に、佐為が腕を伸ばしてきた。
「ヒカル!」
しばし唖然としていたヒカルだが、その声に佐為の腕を取り、勢いをつけて
自分の体を馬上に持ち上げる。佐為の後ろに跨がって、懐しい背中にしがみつく。
だが、呑気に再会を喜んでいる暇はなかった。
「急いで下さい、佐為殿! この足止めはそう長くは持ちません!」
佐為は馬の首をめぐらす。
「ヒカル、しっかりつかまっていなさい」
力強く瓦礫の山を乗り越え、二人を乗せた白馬は庭に降り立った。アキラを
乗せた馬もそれに続く。
数瞬おいて、アキラの言った通りあの蛇達が後を追ってきた。
門の方へと馬を走らせれば、蛇達も地面をまるで氷の上を滑るがごとき
早さで這ってついてくる。
アキラを乗せた馬はともかく、二人分を背負うことになった馬の方は、
佐為がどんなにせかしてもなかなか速度が上がらず、足元に迫った
蛇に怯えて嘶いた。
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