天涯硝子 22


(22)
ヒカルはそうしながら、自分の胸が締めつけられるような痛みを感じていた。

泣いたのは、どうしようもない後悔からだった。
佐為に、満足に碁を打たせてやらなかった。
消えてしまうと不安がる佐為の気持ちも考えずに、放っておいた。
悔やんでも悔やんでも、元に戻らない現実。
佐為は、夢の中に現れて笑顔を見せてくれたけれど、
あの頃のように、碁を打つ自分のそばにいて、笑顔を見せて欲しい…。

そして今、願ってしまう。
冴木に、片時も離れずに、そばにいて欲しい。
あの頃の佐為のように、自分のそばにいて欲しい…。



翌日の午後、ヒカルの家を冴木が訪ねて来た。
昼食を取り、部屋に戻ると玄関のチャイムが鳴った。
母が応対に出たと思ったら、冴木の声がしたのでヒカルは驚き、手にした詰碁集を思わず落とした。
玄関に行くと、母が冴木にいろいろと礼を言っていた。冴木は照れた様子で立っていたが、
ヒカルが姿を現すとホッとした表情で、軽く手を上げて挨拶した。
「忘れ物届けて下さったんですって」
「こっちまで来る用事があったから、ついでに」
明日、研究会で会えるのにどうして?そうついて出そうになった言葉を飲み込んだ。
ヒカルに小さな紙袋を渡し、それじゃ、と帰ろうとする冴木をヒカルは引き止めた。
「上がってってよ、冴木さん」
「用事はお済みなんでしょ?どうぞ、お茶でも」
ふたりにそう誘われるのを冴木は断り、帰ろうとするのをヒカルは腕を捕み、
なかば強引に家に上げた。
ヒカルの部屋に行くと、すぐに母親が冷たいお茶を持って来た。
冴木が、いつもは見せない顔で緊張している様子が、ヒカルにはおかしかった。
「人にお茶煎れてもらうのなんか久しぶりだ」
そう言って、冴木はお茶を飲む。
そうだった。冴木は一人暮らしだ。よく棋士仲間が冴木の部屋に上がりこむけれど、
冴木が手際よく人の面倒を見るせいか、逆に誰も気にとめない。
だから、独り暮らしができるのかもな、とヒカルは思いながら紙袋の中を見た。
中には、手触りのいい綿のシャツが入っていた。
ヒカルのシャツではない。淡い水色の形のいいシャツにはまだ、新しいタグが付いていた。
「それな、おまえにやるよ」
冴木は氷をいい音をさせて噛んだ。
「忘れ物なんか、してないって思ったんだー」
「…おまえに会うための口実」
そう言って冴木は笑った。

前の晩、ヒカルを車で家まで送った冴木は、車の中では、いつものように明るく他愛もないことを
話していたヒカルが、玄関前に着く頃には寂しそうな顔をして黙り込んだことを気にしていた。
玄関前に立ち、冴木を見送るヒカルが、無理に笑顔を作っているのがわかった。
何故なのだろう。何故ヒカルは自分を今にも失ってしまうような、不安な顔をするのか。
冴木は今日一日、ヒカルに会わずにいることが、後で後悔するような気がしてならず、
口実を作ってヒカルに会いに来たのだ。



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