初めての体験 Asid 桑原(1)
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今、ボクは、ある老人と向かい合って座っている。桑原本因坊だ。ボクは、自分が
何故ここにいるのかを、改めて考えた。
雑誌の取材の帰りに、棋院でこの老人に声をかけられ、食事に誘われたのだ。理由は
よくわからない。気安く食事に誘われるほど、親しい間柄ではない。だが、ボクは、この
誘いを受けた。暇だったこともあったし、本因坊の人柄に興味もあった。何よりこの老人には、
自分と同じ匂いを感じた。そう、Sの匂いだ。
本因坊に誘われるままに、タクシーに乗り込んだ。しかし、老人は誘っておきながら、
話題を振ろうともしない。ボクも、別に話したいことがあるわけではないからいいけどね。
着いたところは高級料亭。常連らしく、仲居を目で促すと勝手にズカズカ進んでいく。
それをとがめる者は誰もいない。ボクも、その後をついて行った。廊下で仲居さん達と
すれ違った。なんか視線を感じるな。じろじろ見るなんて失礼な。
憤慨しながらも、遅れないように老人の後に続く。暫くすると、ある一室に通された。
広々とした座敷は庭に面しており、障子を開けると美しい日本庭園が、目の前に広がった。
床の間には、水墨画が掛けられ、その前に清楚な花が一輪挿しに飾ってあった。ボクは、
こういう静かな場所は結構好きだ。落ち着く。桑原先生も結構いい趣味をしている。
だが、気に入らないところが一カ所だけある。あの襖の向こうだ。あの奥の間には何かある……!
例えば、行灯の仄かな灯りに照らされる緋色の絹布団…とか。
段々と老人の目的が見えてきた。ただの勘だが――――ボクのS因子がそれを告げている。
なぜなら、ボクもいつかは進藤をこういうところへ連れ込んで、虐めてみたい――と常々
思っていたからだ。
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ボクは迂闊に誘いに乗ったことを後悔した。いくら何でも、老人相手では、楽しめそうもない。
ボクのモットーは老人には優しくだ。碁会所の客は、中高年が多いので、親切にしておかないと
客に逃げられてしまう。お父さんがつくった碁会所を、ボクがつぶすわけにはいかない。
むかつく客にも笑顔で応対。それがプロだ。
誰も知らないだろうが、ボクの頭の中では、北島さんは既に百回は死んでいる。彼は、
進藤に…進藤に…あんな暴言を……!進藤の「来ない!」宣言がどれほどボクを落ち込ませたか!
思い出したら、悲しくなってきた。ああ…それより、現状を打開する方法を考えなければ―!
ボクの想像力を持ってしても、この桑原本因坊を進藤に見立てるのは難しい。はっきり
言って、ムリだろう。「五十年後の進藤だ」と思いこめば……だめだ!できない!!進藤が
こんな姿になるなんて思えない!思いたくない!五十年後も進藤は、猿の惑星何かじゃない!
愛くるしいポケットモンキーだ!……この老人とは、絶対ムリだ…!
………だが、試しもしないでムリだと決めつけるのも、どうだろうか…。最初から
負けを認めるのは、何より、ボクのプライドが許さない。これはボクに課せられた試練だ。
この老人を攻略してこそ、真の達人への道ではないだろうか?よし――――覚悟を決めよう。
「桑原先生…今日はお誘いいただいてありがとうございます。」
ボクは、最上の笑顔でにっこりと本因坊に笑いかけた。老人は横柄に頷いた。ムカつく。
が、それを堪えて、表面上はあくまでも穏やかに微笑んだ。
「先生のような方に、声をかけていただけるなんて光栄です。」
ボクは、彼の企みに気づかない振りをして、目を輝かせて見せる。それから、あれやこれやと
老人を誉め讃えた。誉められて悪い気はしないのか、老人の口元が僅かに弛む。ボクは、
口先では美辞麗句を並べながら、頭の中はフル回転で、どうやって老人を籠絡するかを
考えていた。
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心にもないことを老人に言い続けるのに疲れた頃、料理が運ばれてきた。ボクは、
さりげなく料理を見分した。ふ…ん…やはり、椀物が怪しそうだ。
ボクは、巧みにそれをよけて口に運んでいく。本因坊の目が、ボクの動作を鋭く見ていた。
うーん、困った。一口ぐらいなら大丈夫なような気もするが…。
いつまでたっても、椀を口にしないのに焦れて、老人が催促する。
「飲まんのか?赤出汁は嫌いか?」
「ボク、好物は最後にとっておく主義なんです。」
そう言って、かわしたが老人は納得していないようだ。ウソじゃないのに…アッチの
趣味だって、進藤ではなく他の相手でガマンして――――和谷とか芦原さんとか…先生、
あなたとかね。うぅ、それなのに…老人は射るような視線を送ってくる。
ちィ…!仕方がない飲んでみるか…!ボクが飲むと、抑制が利かなくなりそうで怖いの
だが………。正気に戻ったとき、死体が転がっていたらどうしよう……。
ま、そうなっても、桑原本因坊の自業自得だよね。
ボクが、椀を口元に持っていったちょうどその時、老人に電話が入ったと仲居が呼びに来た。
忌々しげに舌打ちをして、本因坊は中座した。電話ならここで受ければいいと思ったが、
ここのは、内線専用らしい。ともあれ、お陰でボクは助かったわけだ。
桑原先生が部屋を出ていくと、ボクは素早く自分の椀と先生の椀をすり替えた。そして、
念のため、すり替えた椀の中身を庭に捨てた。自分の分にまで入れているとは思わないが、
念には念を入れないと…。
先生は、酒を飲むだけで料理にほとんど手をつけていなかったし…可能性はないとは
えない。ボクは、用心深い性格なので、極力危険は避けたいと思っている。
それにしても、もし…もしも…だ。老人がアレを飲めばどうなるか――実に興味深い。
ボクの好奇心が疼きだした。
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暫くして、桑原本因坊は中座したことを詫びながら戻ってきた。そして、ボクの膳の上を
チラリと眺め、椀が空になっているのを確認すると、満足そうに頷いた。自分の企てが
図に当たりそうなことに、にわかに機嫌を良くして、お酒もよく進むようだ。ほとんど
手つかずだった料理にも箸をのばし始めた。実に楽しそうだ。
先生、ボクも楽しみです。早く、それ、飲んでください。
「どうじゃ?旨いか?」
本因坊が、料理に舌鼓を打ちながら、ボクの様子を窺う。
「ええ、とても…特に、椀盛りが絶品で…」
本当は、一口も飲んでいないけどね。
「ほう…?」
本因坊は、面白そうにボクを見て、少し冷えてしまった椀を口元に運んだ。
「……う…む…」
「温かいときは、とてもおいしかったんですよ。」
老人は一口だけ飲んで、椀をおいてしまった。残念だ。もう一口くらいいって欲しかった。
まあ、いいか。一口でも効き目はあるのかな。どれくらいで効いてくるのかな。
ボクと桑原先生は、笑顔で語り合う。端から見ていれば、実に和やかな光景だろう。
だが、その胸中は推して知るべし……だ。ボクには、老人の考えが手に取るように
わかるが、向こうはボクが何を考えているかわかっているのかな…。
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小一時間もすると、本因坊の落ち着きがなくなってきた。
「どうかなさいましたか?」
「いや……」
老人は、なんでもないと手を振ったが、肩で息をつき明らかに様子がヘンだった。ボクは、
口の端だけで笑った。俯いている老人には、その笑みは見えなかっただろう。
苦しげに呻く老人の背後に回って、そっと背中をさする。
「大丈夫ですか?」
「…ああ…」
桑原本因坊は、辛そうに返事をした。手が震えている。
背中をさすりながら、ボクは続けた。
「料理に何かおかしな物でも入っていたんでしょうか?例えば、椀盛りの中にでも…」
「―――― !!」
本因坊がギョッとして、振り返った。
その瞬間、ボクは、老人を突き倒して馬乗りになった。本因坊の顔は、驚愕と不安に
彩られていた。ボクは、真上から、その表情を楽しんだ。本因坊と呼ばれるこの老人に
こんな顔をさせたのは、囲碁界広しと雖も、ボクぐらいではないだろうか。
「先生…本当はボク飲んでいないんです…」
「ボクの分は、先生が飲んでしまわれたので…」
ボクは、最高の笑顔を作ったつもりだが、老人は恐怖で口もきけないようだった。
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