パッチワーク 22 - 28
(22)
部屋は2階のヒカルの隣の部屋でこれまではおじさんが書斎に使っていたそうだ。荷物の運び込みが終わって
台所にいた母とおばさんに報告に行くといろいろな約束事の確認をした。約束事は母とおばさんがこれまで
話し合って決めたことで私も母から説明されていた。確認が終わるとおばさんが言いにくそうに話を切りだ
した。
「実はね、ヒカルが昔ほどじゃないけれど夜中にうなされてることがあるの。碁をはじめてから安定していた
から安心していたのに、碁をやめるって言い出したときにぶり返して。復帰してからは落ち着いてきたけれど
まだ週に一度くらいね。」
小学校にはいる前、三日ほどヒカルが行方不明になったことがある。公園で隠れん坊をしていたときいなく
なって、それまでにも何回かヒカルが急にいなくなったことがあるから私たちも気にしていなかった。大体
は知らない人に御菓子を上げると言われて付いていってしまったからでそれまでの人は夕方までにヒカルを
帰してくれてヒカルもけろっとしていた。幼稚園の園長先生もヒカルだけおいしいケーキがあるからと家に
呼んだり、お祭りの子ども山車の途中でトイレ行きたいと行った子に我慢しろっていっていた町内でも怖い
おじさんもヒカルがトイレ行きたいって言ったとたん山車止めて近所の家にトイレ貸してもらうように頼ん
だり、公園とかに遊びに行くときでも途中の家の人やお店の人が「ヒカルちゃん、お菓子があるから寄って
らっしゃい」って言われるのはいつものことだった。でも、このときは違ってヒカルが帰ってこなくて見つ
かったのは三日後だった。ヒカルはこのときのことを何も憶えていなくて、でもそのあとずっと自家中毒を
起こしたり、急に意識を失ったり、ぶつぶつ独り言を言ったり、記憶が飛んでいたりした。学校でもヒカル
は授業中にふらふら歩き回ったりしていた。先生も事情を知っているのでとがめなかった。低学年のとき授
業を聞く習慣ができなかったので高学年になっても、中学になっても成績は悪いままだった。だから、碁を
するようになるまでヒカルにあんなに集中力があるなんて思いもしなかった。
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夜もひどくうなされておばさんは四年生になるまでヒカルに添い寝していた。
ヒカルの家に遊びに行って一緒に昼寝をするときにはおばさんにヒカルがうな
されたら「大丈夫」って何回でも言って上げてと頼まれたこともある。だから
昼寝するとき手を繋いだりもした。私も母からヒカルから目を離さないように
言われし、ヒカルがまたいなくなるのが怖くて私はいつもヒカルのあとにくっ
ついて行くようになった。おじさんやおばさんも自分たちか私が一緒でなけれ
ばヒカルを外へ出さないようにしていた。おばさんがずっと添い寝をしていた
反動か5年生のときうちとヒカルのうちで一緒に海の民宿に泊まったときや6年
生の修学旅行でも人が一緒だと眠れないと言って廊下で寝ようとして先生に怒
られた。小学校に入ってから無責任な噂で惚けたおばあさんが孫と間違えたと
か男の人が自殺の道連れにしようとしたとかいろいろなことが耳に入ったけれ
ど私には身近すぎて母に事件のことを聞くことはできなかった、だから私は今
でも何があったか知らない。私にわかっているのはあの時ヒカルがどこにいる
のか私たちにはわからなかったこと、憶えているのはヒカルにもう会えないか
もしれないと言う恐怖感だ。 段々良くなっていったけれど独り言などは中学
になっても続いていた。
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小学校のときのヒカルの影のあだ名は「誘拐された子」だったけれど、中学での影のあだ名は「あの加賀のお稚児
さん」だった。男の先輩や同級生たちが「女の子だったら告ってる」「加賀がライバルじゃあ」「加賀にばれたら
怖い」とかヒカルにはわからないように言っていたけれど多分加賀さんが好きだったのはヒカルじゃなくて筒井さ
んだ。中学の学区廃止・選択制をにらんで先生たちが進学実績を上げようとしてたのに合格圏より3ランクも下の
筒井さんと同じ高校を選んだ。高校でも威張りたいんだろうとか言っていた人も多かったけれど東京だけでなく埼
玉・千葉・神奈川の高校も選べるこの地域では1つのランクで10から20の高校が選べる。上下2ランクずつ約100
校の中から受験日などを考えて3から多い人は10校近く受験する。それなのに加賀さんは筒井さんと同じ高校しか
受験しなくて筒井さんが不合格のところも合格したのに筒井さんと同じ高校を選んだ。でも、噂のおかげで女子で
も男子でも中学の間にヒカルのそばに寄ってくる人はいなくて私にとっては加賀さんはありがたい存在だった。
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夜ヒカルが帰ってきたので部屋に挨拶しにいった。ヒカルの部屋にはいるのは秋の塔矢君との対局の前の日以来
だった。あの時はヒカルが途中で居眠りしそうになって怒ったら「塔矢との対局が楽しみでわくわくして一週間
ぐらい上手く寝付けなかったのにおまえと打ってたらなんか気持ちが落ち着いてきて眠くなったんだ。俺昼寝す
るから子どものときみたいに手を握ってて」と言われて子どもの頃のいつも二人でいたときに戻ったみたいで嬉
しかった。四月のときのことがあって。あれは私にとっては恋愛感情と関係ない好奇心の延長線上であまり気持
ちのいいものじゃなかった。ただ、高校に入って古文の授業のとき先生の雑談を聞いて自分が三途の川を渡ると
きはヒカルが背負ってくれるのかなと思ってそれはそれで嬉しかった。ヒカルは前と同じように好きだけれどヒ
カルとまたあれをしたいかというとそんなことはなかった。でも、もう子どものときのようにはヒカルと話すこ
とはできないんじゃないかと思っているあいだにヒカルが対局を休みはじめあのことのせいかと思ったけれどヒ
カルの態度を見てそうじゃないのはわかった。そしてヒカルがあの時みたいにやせていって心配していたらまた
対局に戻ってその間自分は何も関わりがなかったからヒカルとの距離を感じていた。だから余計に秋の時は子ど
もの頃に戻ったみたいで嬉しかった。
パッチワーク 2003 夏 あかり(高一) 了
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このマンションに帰ってくるのは約一ヶ月ぶりだけれど三星杯から帰国したあとが記憶が曖昧なせいか
半月も経っていない気がする。管理人室に寄って救急車のことや長期の留守で迷惑をかぇたことをわびて、
お礼がわりのお土産に小田原名産の梅干しと籠清の蒲鉾を渡す。部屋の玄関を開けると湿ったようなほこ
りっぽい様な空気の臭いがした。救急車で運ばれたと聞いたのと自分に記憶がないのでどんなに乱雑にな
っているか、特に生ゴミの始末に覚悟していたけれどその気配がない。とりあえず持ってきた衣類をクロ
ーゼットにしまおうとして気づいた。彼の服がない。部屋を見回してみると彼がこの部屋においていた雑
誌や鞄もなくなっている。あわてて台所の食器棚を開けてみると彼の茶碗や箸、湯飲みやカップが無くな
っている。僕にとっては半月でも彼にとっては半年なのだと知識としてはわかっていても実感がない。だ
から切迫感がなさ過ぎたのかもしれない。のどに渇きを覚え冷蔵庫を開けると入っているのはビールやワ
イン・ミネラルウォーターで彼のために切らさないようにしていた清涼飲料水の類と食べ物がない。他に
もなくなっている物がないか確認しようと家の中をチェックしてみると彼の物が何も残っていない。まる
でここで彼と暮らしていたという僕の記憶が妄想であるかのように。逆に増えていたのは僕の服だ。パジ
ャマや下着類が僕の記憶しているよりも数が多い。 前に持っていた覚えはないけれど病院で着ていた覚え
のあるから誰かが病院に持ってきてくれたのだろうか?あっ、いけない市河さんに入院していた間の費用
立て替えてもらっていたんだ。多分、服も市河さんが用意してくれたのだろう。お礼の電話をしなくちゃ。
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芦原さんの家に電話をすると市河さんが−本当は芦原さんの奥さんって呼ばなければならないけれど旦那さんの
芦原さんが家では「奥さん」って平気で呼べるし市河さんも平気で返事できるのに、新婚当時緒方さんがからか
いすぎたせいか外では「奥さん」って呼ぼうとすると芦原さんは顔を真っ赤にして照れてしまうものだから市河
さんも照れてしまって結局芦原さんは外では「市河さん」って呼んでいる。だから何とはなしに結婚して何年に
もなるのにみんな市河さんと呼んでしまっている−入院費用や着替えは市河さんじゃないと言うのだ。
市河さんが病院で聞いたことによると三日おきに汚れ物を取りに来て着替えを置いて行き入院費用を払っていた
のは若い女性だったというのだ。「アキラ君の彼女じゃないの。今度紹介してね。」曖昧に返事をして電話を切
った。心当たりは一人だけいる「あの女」だ。
数年前、彼の両親が転勤で仙台に転居するとき彼の両親は彼も一緒に仙台へ連れていこうとした。彼は東京に残
って一人暮らしをしようとして反対され、友達(僕のことだ、彼の両親にとって僕は彼の恋人ではなく会ったこ
ともない彼の友達なのだ)と一緒に暮らしたいと言って反対された。そして彼の両親が彼が東京に残るならと条
件にしたのが今住んでいる家での彼女との同居だった。いくら彼女が高校・大学と何年も彼の家に下宿していて
家族同様と言っても未婚の男女を二人っきりで同居されるだなんできっと彼女が断るだろうと思った。でも彼女
は断らなかった。実際は彼の両親の転居後彼は僕の部屋で暮らしているようなものだった。でも、両親が何かで
帰京するという連絡があると「帰る」といって彼女のいる家に帰っていった。
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最初の北斗杯の合宿のあと彼は時々家に泊まるようになった。そのころ僕は自分の気持ちを自覚して
いなかった。僕にとって彼は小学校以来久しぶりに得た同年代のしかも話が合う友達だった。僕の行
っていた小学校は母の母校で一学年一クラス、しかもクラスの人数は30人くらいしかいなくて女子大
の付属だったせいか男子の方がちょっと少なかった。ばらばらな地域から通ってきているから家に帰
ってしまうと皆で遊べないので学校は7時までなら残っていても良かった。僕は習い事をしていなか
ったから放課後は学校でクラスメートと6時くらいまで一緒に宿題をしたり遊んだりしてから碁会所
に行っていた。中学からは女子校になってしまうので父の母校の海王中に行くことにした。生徒数が
小学校と桁違いに多いのは覚悟していたし、囲碁部で浮くことも覚悟していた。でもクラスは基本的
の6年間もちあがりでそこここ仲のいい生徒はいた。たしかに中一の夏から秋にプロ試験があったけれ
ど海王中は週休2日制だったので実際に休んだのは火曜日だけだし、二年になりプロとしての生活が始
まって出席日数は徐々に減っていたけれどクラスの中ではいつもだれかしら短期留学で休んでいたし、
既に大学の研究室に出入りしているような生徒もいた。他のクラスでも将棋の奨励会の会員や音楽や
バレエで国際コンクールに出場するため個人レッスンなどで半年近く学校に来ない生徒もいたりで休
んでいても皆気にしていなかったからクラスの居心地はそれなりに良かった。中学で辞めたのは僕を
含めて学年で5人ほどだったと思う。
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