日記 221 - 225
(221)
オレは悪くないよね―――――――――?
アキラの心を見透かすように、ヒカルが訊ねる。いや、問いかけではない確認だ。心細げに
唇を戦慄かせ、消えそうなほど細い声で何度も何度も繰り返す。
悪くないよ――――――――
戸惑いながらも、そう答えるしかなかった。
「ホントに?」
「本当だよ………キミは悪くない…」
「………本気にとるぞ?」
「いいよ…本当のことだもの…進藤は悪くない…」
ヒカルは悪くない。彼の仕草に冷静さを簡単に失ってしまう自分の方が悪いのだ。目の前にいるのは
アキラの大好きだったヒカルではない。明るくて無邪気なヒカルは、今は息を潜めて隠れている。
それなのにどうしようもなく、心がざわめく。
「キミは悪くないよ……」
「ウン……」
アキラはヒカルが泣き出すのかと思った。だが、彼は泣かなかった。代わりに、アキラの顔を
両手で包み自分の方へ引き寄せた。
―――――大好きだよ……
オマエの好きにしていいよ………
ヒカルは、小鳥の羽よりも軽い吐息のような声で囁いた。
胸が締め付けられるような愛しさで胸が詰まった。
(222)
ヒカルが呻くたびにアキラは手を止めて、心配そうに顔を覗き込む。それがうれしい。
アキラは自分よりも、ヒカルのことを優先してくれる。もし、今ここでヒカルが嫌がれば、
彼は身を退いてくれるだろう。
優しげな外見に似合わず、気性の激しいことはよく知っているが、けっして自分の感情を
押しつけたりはしない。こうしてふれ合っている間も、どれ程の忍耐を彼に強いているのか
考えただけで切なくなる。アキラは、これ以上ないくらいそっと触れてくるのだ。
ヒカルはアキラを避けていた。自分への嫌悪感。そして――――――
―――――どうして……オレ…コイツを怖いだなんて思っていたんだろう………
ヒカルは、アキラを黙って見つめた。彼の水のように静かな顔を見ていたかった。言葉を発して、
その静寂を壊したくはなかった。
一瞬、相手の瞳に動揺が浮かんだ。ヒカルの中で、不安がシミのように広がっていく。
どうしても、訊かずにはいられない。
「オレは悪くないよね?」
アキラは、ヒカルの欲しい答えをくれた。
(223)
「好きにしていいよ………」
「そんな風に言われたら、本当に止められないよ………」
うん―と、ヒカルは頷く。
「優しくしたいんだ………」
わかっているよ――いいよ…大丈夫…泣いたりしない。
「………でも…キミが欲しくて堪らない……」
「オレも……」
ヒカルが目を閉じると、瞼にそっと唇が触れた。
「ん……アァ…!」
乳首を軽く噛まれて、ヒカルは喘いだ。熱い息が、肌を滑っていく。久しぶりに感じるアキラの
肌は相変わらず滑らかで気持ちがいい。しっとりと汗に濡れた感触でさえ、心地よかった。
「進藤、進藤………」
譫言のように名を呼び続けるアキラに、胸の上にさらさらと零れる髪を撫でることで応えた。
息が上がって、何を言っても言葉にはならない。ヒカルの口からは、短い切れ切れの音が漏れるだけだ。
「あ…はぁ…ト……ヤ…」
ヒカルは宣言した通り、抵抗をしなかった。アキラの指が肌をなぞる感触に、少し身震いしたが、
自分でも危惧したような泣いたり叫んだりはしなかった。アキラの熱に抱き込まれて、恐れを
抱く暇もなくそのまま流されればいいと思った。
だけど、アキラがヒカルの身体を俯せにしたとき、その誓いを破って泣いて抵抗した。
この期に及んで怖じ気づいたというわけではない。ただ…………。
彼にしてみれば、ヒカルに負担が掛からないようにと、気を遣ったつもりだったのだろうが………。
「進藤………」
やっぱり無理なんだねと、身体を引こうとするアキラにヒカルは必死で訴えた。
(224)
「ち……ちが…」
泣きながら激しく首を振る。背中に感じていたアキラの体温の代わりに、冷たい空気が肌を撫でた。
「無理しないで…」
アキラが離れようとしている…………ヒカルは離れかけた腕を強く掴んだ。
「いやだ……!ちがう…ちがう……!」
ヒカルは、アキラの手を自分の胸に抱え込むようにして、シーツに顔を伏せた。
抱かれるのが嫌なのではない。この体勢が嫌なのだ。和谷に殴られ、無理矢理押さえつけられて、
背中から犯された。相手の顔も見えず、獣みたいな息遣いがヒカルの首筋にずっとあたっていた。
背後から無慈悲に自分を貫く男が、親友だと信じることが出来なくて、ヒカルはただただ泣いた。
その時のことは、思い出したくもない。止まってしまった時間の中で、それは、一生消えない
恐怖と苦痛をヒカルに与えた。
「顔……見えないの…やだ……怖い…とうやの…顔…見たい……」
しゃくり上げながら、やっと、それだけ言った。
胸の下から、ゆっくりと手が引き抜かれた。
「あ…ダメ…」
追い掛けようと伸ばした手を捕られる。
「…………塔矢…」
アキラが指先にそっと口づけた。
(225)
アキラの手がヒカルの肩と腰に添えられて、くるりと反転させられた。
「あ…」
いきなりだったので、ヒカルは驚いてしまって思わず目を閉じた。
次に瞼を開いたとき、ごく間近に彼の秀麗な顔があった。薄暗い部屋の中は、全てがボンヤリと
して輪郭が闇に溶けてしまっている。現実にいるのか夢の中なのかわからない曖昧な空間に
取り残されたような錯覚さえ起きてくる。それなのに、アキラの顔だけは、目も鼻も口も
ハッキリと見えて、ヒカルは暫し陶然と彼を見つめた。
「ボクもキミの顔が見えた方がいい…」
アキラにも自分の顔がハッキリと見えているのだろうかと、不思議に思う。
もしかしたら、本当に見えているのではなく、ヒカルの記憶に刻み込まれている彼の表情を
スクリーンに映しているだけなのかもしれない。そんな取り留めもないことを考えていると、
アキラがヒカルの腰を抱え上げ、足の間に自分の身体を滑り込ませてきた。
いよいよその瞬間が来た。嬉しいような逃げたいような複雑な気持ちが、ない交ぜになって、
ヒカルは腰に添えられているアキラの腕を強く握った。アキラの顔を見たいと言ったくせに、
目をギュッと閉じ、顔さえ背けた。
闇を通して、アキラが苦笑したような気配がした。
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