平安幻想異聞録-異聞- 225 - 226
(225)
ヒカルが叫ぶ。
「佐為! 手綱よこして!」
後ろから、佐為の体を挟むようにして延ばされたヒカルの両手に、佐為は
頷いて手綱をわたす。
この状況では文官の佐為が操るより、普段から馬に乗り慣れている
武官のヒカルの方が、はるかにましだ。たとえ、熱のあるフラフラの体でも。
ヒカルが手綱を取ったとたん、馬の動きがかわった。
佐為の後ろに跨がったままヒカルは、手だけを佐為の前に出し、前方が
見やすいように首を少しかしげて、足元にまとわりつく蛇の鎌首の間を
縫うように馬を疾走させる。
半壊した座間邸の門をまずはアキラの馬が、続いてヒカルと佐為を乗せた馬が
駆け抜けた。
門の外は、驚くほど静かだった。
二,三の小路を通りすぎ、大宮大路へと出てから馬を止める。
そこには、同じく座間邸から逃げ出してきたのであろう、使用人達――衛士や
侍女らがたむろして、呆けたように、突然の災厄に見舞われた主の屋敷の方を
見ていた。怪我をしている者も多い。
座間邸の中の喧騒は外には伺い知れないほど静かであるにもかかわらず、
二条通りには、怪異の気配をかぎつけた近所の貴族、町人達があつまり始めて
いた。気のきいたものは怪我人の手当てを始めている。
「音が聞こえないね、なんで?」
佐為の後ろに跨がったまま、ヒカルはアキラに問掛ける。
「簡単な結界をつくってきた。ただ、あれほどの妖魔相手では破られるのは
時間の問題だね」
周りには、怪我人と市民が大勢いる。結界が破られれば、あの大蛇は
迷わずヒカルを見つけ出し、ここに向かってくるだろう。自分には、あの
肌に刻まれた印がある。このまま、ここに居るわけにはいかない。
「賀茂、あいつ、やっつけられるかな。京の妖しの放った妖怪を封じた
時みたいに」
「君が戦えるなら。僕ひとりでは無理だ」
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馬上の賀茂アキラが、まっすぐにヒカルを見た。ヒカルは頷いて、腰に
剥き出しのまま挟んだ調伏刀に手をやった。あの妖怪退治の時と同じように、
まずはヒカルがアキラの盾になってあれと戦い、力をそいだ所を、アキラが
呪法を使って封じるのだ。
ヒカルは佐為の背中越しに、手綱を操って、白馬の首を再び座間邸へと
向けた。
「佐為、おまえは降りて、ここに残れ」
自分の前に座る佐為に告げる。
「何を言ってるんですか、ヒカル、私も…!」
「碁を打つしか能のないやつは、足手まといなんだよ!」
ヒカルはわざと一番きつい言葉を投げ掛けた。
佐為は一応、太刀を携えてはいるが、いざ、戦闘となれば、その剣の腕など
たかが知れている。遊びで何度か佐為と打ちあったことのあるヒカルは
それをよく知っている。
再びあの混乱の中に飛び込むことになったら、佐為は絶対に大怪我をする。
ただでさえ、万全の体調ではないヒカルに佐為をかばう余裕はないだろうし、
佐為にそんな怪我をさせたくなかった。
しかし、やんわりとした、生半可な拒絶の言葉では、この優しい人は付いて
行くと言ってきかないだろう。
だから、ヒカルは、佐為が一番傷付くだろう言葉を故意に選んだ。
それでも、少し心配になって、ヒカルは恐る恐る顔をあげて佐為の方を見る。
佐為が肩越しにヒカルを振り返って――微笑んでいた。
きつい言葉の向こうにあるヒカルの気持ちを、ちゃんとわかってくれたのだ。
体をねじって、佐為がヒカルの砂ぼこりにまみれた頭を抱き寄せる。
こめかみに軽い口付けが落ちた。
「気を付けて」
佐為が馬から飛び降りた。
ヒカルは馬の腹を蹴った。アキラも、通りに降り立った佐為に一礼してから、
走り出したヒカルの馬の後を追う。
二頭の馬は白い残像のような軌跡を残し、佐為の視界の中でみるみると
小さくなった。
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