平安幻想異聞録-異聞- 226 - 230
(226)
馬上の賀茂アキラが、まっすぐにヒカルを見た。ヒカルは頷いて、腰に
剥き出しのまま挟んだ調伏刀に手をやった。あの妖怪退治の時と同じように、
まずはヒカルがアキラの盾になってあれと戦い、力をそいだ所を、アキラが
呪法を使って封じるのだ。
ヒカルは佐為の背中越しに、手綱を操って、白馬の首を再び座間邸へと
向けた。
「佐為、おまえは降りて、ここに残れ」
自分の前に座る佐為に告げる。
「何を言ってるんですか、ヒカル、私も…!」
「碁を打つしか能のないやつは、足手まといなんだよ!」
ヒカルはわざと一番きつい言葉を投げ掛けた。
佐為は一応、太刀を携えてはいるが、いざ、戦闘となれば、その剣の腕など
たかが知れている。遊びで何度か佐為と打ちあったことのあるヒカルは
それをよく知っている。
再びあの混乱の中に飛び込むことになったら、佐為は絶対に大怪我をする。
ただでさえ、万全の体調ではないヒカルに佐為をかばう余裕はないだろうし、
佐為にそんな怪我をさせたくなかった。
しかし、やんわりとした、生半可な拒絶の言葉では、この優しい人は付いて
行くと言ってきかないだろう。
だから、ヒカルは、佐為が一番傷付くだろう言葉を故意に選んだ。
それでも、少し心配になって、ヒカルは恐る恐る顔をあげて佐為の方を見る。
佐為が肩越しにヒカルを振り返って――微笑んでいた。
きつい言葉の向こうにあるヒカルの気持ちを、ちゃんとわかってくれたのだ。
体をねじって、佐為がヒカルの砂ぼこりにまみれた頭を抱き寄せる。
こめかみに軽い口付けが落ちた。
「気を付けて」
佐為が馬から飛び降りた。
ヒカルは馬の腹を蹴った。アキラも、通りに降り立った佐為に一礼してから、
走り出したヒカルの馬の後を追う。
二頭の馬は白い残像のような軌跡を残し、佐為の視界の中でみるみると
小さくなった。
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ヒカルとアキラは結界を越えて、かつて二条通りにその偉容を誇った座間邸に
飛び込んだ。壮麗な寝殿造りが今は見る影もない。
辿り着いた西門はすでに崩れていたので、壊れて倒れた壁を乗り越えて侵入する。
途端に異様に濃い瘴気が二人を包んだ。
まるで水の底にいるようだ。
「これだけ妖気が濃くては、奴の本体がどこにあるかもわからない!」
アキラが忌々しげにつぶやく。
「賀茂、俺、体が本調子じゃないからな。長期戦はごめんだぜ」
「わかっている」
二手に分かれて、敵の本体を探すことになった。賀茂アキラは西対屋を、
ヒカルは東対屋を。
アキラが天を指した。
「見つけたら、あれに手を振るかして知らせてくれ」
そこには黒い鳥が一羽。円を描いて飛んでいた。
「僕の方でも君に知らせる。くれぐれも、一人でどうにかしようなんて考えるな」
「おまえもな!」
お互いに無理をしないことを約束させて、馬を出す。
庭を突っ切り、ヒカルは騎乗したまま東対屋の建物の中へと乗り上げた。
破壊され、倒れた柱や瓦礫、床板の割れ目などで障害物だらけになった渡殿を、
ヒカルは目をこらし、あちこちを覗き見ながら単騎駆け抜ける。あの肉蛇の
本体はどこか。また、逃げ遅れた怪我人はいないか。馬の蹄が、いつもなら
楚々とした侍女達が行き来する廊下を踏みしだいてゆく。
馬の耳が不意に怯えたように後ろに伏せられた。ヒカルはそれを見て腰の
調伏刀を抜き、振り向きざまに確かめもせず薙ぎ払う。
後ろの天井の隙間からヒカルの背中を狙い澄まして飛びかかった肉蛇が、
空中で見事に真っ二つにされ、頭と胴体が別れて、焦げ臭い匂いをさせながら
床に落ちた。
見覚えのある区画に差しかかった。ヒカルはずぐに、それが、座間から与えられ
ていた自分の部屋の辺りであることに気がついた。
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廊下に積もる瓦礫が進路を妨害するのに、ヒカルは迷わず馬を部屋の方に入れる。
その瓦礫の中に光るものを見つけた。さっき肉蛇に奪われた調伏刀の鞘だ。
干からびた肉蛇の遺骸の口が銜えたままのそれを、ヒカルはその横を通り過ぎ
がてらに馬上から身を乗り出して拾い上げ、そのまま駆け抜けゆく。
自分がこの十日間捕らえられていたその部屋を、ヒカルは唯の一度も振り返らなかった。
調伏刀を、やっと手元に戻って来た鞘に戻すと、片手に手綱をまとめて持ち、その
鞘の太刀緒の紐を、もう片手で手探りだけで素早く腰に結わえ付ける。
そのヒカルの前方に三匹、肉蛇が立ちふさがった。背後にも二匹居るのが
気配で分かる。
ヒカルは小さく舌打ちしながら、もう一度太刀を鞘から引き抜き、馬を止めた。
対屋を探索しながら馬で駆け抜け、屋敷の中心の本殿にある座間の寝所まで
辿り着いたのは、賀茂アキラの方が先だった。来る途中で、やはりあの肉蛇と
やりあう羽目になったのだろう。狩衣の右袖が無惨に千切れている。
遅れてヒカルが到着した。
「悪い。遅くなった!」
「どうだった?」
「いない」
床下から、また一匹、板を突き破って蛇が出てきた。アキラが呪言を唱えると、
それが苦しげに痙攣して、床下に戻っていった。そうやって、彼は西対屋も
抜けてきたらしい。
二人は座間の寝所、そしてさらにその奥の北の対にまで、馬上のまま探索の
手を伸ばした。
だが、二人の行く手を邪魔するのは、今までと同じ肉蛇どもばかりだ。二人を、
特にヒカルを狙って群がって来るそれらを、アキラが術で縛り、ヒカルが端から
斬り伏せていく。
「もう、後から後から切りねぇよ! 空から振って来てんじゃないのか?!」
「それはない。蠱毒の異形は地の気を持つ魔物だ。どこか地面に穴を掘って
潜んでいることはあっても、空からは…」
二人は同時に閃いた。
地に深く開いた穴、すなわち。
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「井戸はどこだ?!」
「西の雑舎の裏!」
アキラの問いに、間髪入れずにヒカルが答えた。
すぐに、その場所へ馬を走らせる。
自分達の出した答えが正解であることは、そこに辿りつく前に判った。
肉蛇たちの数が増え、攻撃がより執拗なものになったからだ。それは今までの
ように二人を喰らおうとするよりも、その場所から遠ざけようとする意図の方が
強いように思われた。
井戸が視界に入ったその時、ついにアキラの乗った馬が肉蛇に足を取られ、
恐怖の嘶きをあげて転倒した。アキラが地面に投げ出される。
その様子にヒカルの馬も尻込みしてたたらを踏み、その隙をついて、腹に
噛みついた肉蛇に引き倒された。
ヒカルは落馬する前に馬から飛び降りたが、アキラは受け身を取りそこねて、
したたかに左腕を打ち付けたらしい。うずくまり呻いている。
それを横から肉蛇の一匹が狙っているのを見て、ヒカルは慌てて駆け寄り、
その鎌首を一刀の元にはね飛ばした。
助け起こされたアキラが、ヒカルの背後を守るように背中合わせに立つ。
ねっとりと、呼吸をするのさえ困難なほどの濃い瘴気が、二人を包んでいた。
「なんかこうやってると、いよいよあの時の妖怪退治を思い出すな」
「あの時みたいに後があるんなら、良かったんだけどね」
目の前に集まってくる幾匹もの肉蛇どもを牽制するように太刀を構えながら
ヒカルはアキラと言葉を交わす。
三丈ほど先に井戸があった。
その井戸の中から生える、人の腕ふた抱えほどの太さの、節くれ立った木の幹の
ようなものが一本。
木と違うのは、そこから無数に延びる枝先が、今、ヒカル達を取り囲む肉蛇の
尻尾へと続いていることだ。幹はたくさんの瘤のようなものに埋め尽くされ、
ドクリドクリと脈打っている。その瘤のひとつが、泡が弾けるように割れて、
そこに新たな肉蛇が産まれて生えた。
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間違いない。これが本体。蠱毒の蛇の親玉だ。
あの蠱毒の壺の中で喰らいあい、殺し合って残った大ムカデの怨念が、
人の精を喰らい、心の闇を喰らい、化けた成れの果ての姿だ。
幾十もの肉蛇達がうねり寄り、互いに身を絡ませるようにして、井戸と
ヒカル達の間を遮る。
これを切り分け、肉蛇の数を減らして、本体を調伏できる程弱らせるには、
いったいどれくらい時間がかかるだろうか?
「長丁場は無理なんだったな」
「あぁ、悪いな」
ヒカルはすでに息が上がっていて、肩で呼吸してた。おまけに熱もあるらしい事が、
背中合わせに立っているアキラにも触れる背の熱さで知れた。
「わかった。一発勝負で行こう」
「どうするんだ?」
「僕が符術で道を開く。君はそこから飛び込んで、あの本体を直接切りつけてくれ」
大胆なアキラの提案。
「一太刀でいい。たった一太刀でいいんだ。君が奴の外皮に傷を作ってくれれば、
僕がそこに術力のすべてを叩き込んで、あれを内部から破壊してやる」
「わかった、やってみる」
どの道、ここで色々考え込んでも、益々周りを取り囲む肉蛇の数が増えるだけだ。
ヒカルは注意深く、蛇達が蠢く井戸への道筋を見極めながら言った。
「やれ、賀茂」
アキラが懐から、呪言の書き込まれた札を取りだし、呪文を唱えた後、
持っていた小太刀でその術符を縦に切り裂いた。
切り裂かれたその札から、青い炎が稲妻のように地を這い、井戸の方へ走る。
肉蛇の一部は焼かれ、一部はおたおたと炎から逃げ惑って、そこに数瞬だけ
道ができた。
ヒカルが、そこに飛び込む。
半刻前まで熱でふせっていたとは思えない、若い牡鹿のように鮮やかな
躍動だった。
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