日記 229 - 231


(229)
 「進藤が起きたら、何か食べるかな?」
ヒカルが食べられるようなものがあっただろうか?今朝買ってきたヨーグルトは、ほとんど
手つかずで残っている。確かに、ヨーグルトだけというのは芸がなさすぎた。アイスクリームとか
プリンも買っておけばよかった。
「何か買ってきておこうか………」
時計を見ると、もう十時をまわっていたが、近くにあるコンビニは幸い二十四時間営業である。
 さて出かけようと玄関のドアに手を伸ばし掛けて、ハッとした。アキラは、せっかく履いた靴を
慌てて脱ぎ散らかして、電話へと走った。

 「……………あ、夜分恐れ入ります。進藤さんのお宅ですか?」
呼び出し音が鳴ると同時に、相手が電話に出た。アキラは、やっぱりと自分の迂闊さを叱りつけながら、
名前を名乗った。
「はい。連絡が遅くなりまして………つい、夢中になってしまいまして……はい…ヒカル君は
 疲れて眠ってしまったので、今日も泊まってもらうことに……」
電話の向こうの声は、意外に冷静だった。アキラのところにヒカルがいることを知っていたからだろう。
 昨日、ヒカルは行き先を告げずに家を出てきたらしく、アキラが連絡を入れたとき、彼らは
そろって安堵の息を吐いていた。対応していたのは、ヒカルの母親だが、後ろで父親が
「ヒカルか?どこにいるんだ?大丈夫なのか?」と、しきりに訊いているのが聞こえていた。

 「は――――」
受話器を置いて大きな溜息を吐いた。 きっと彼らはやきもきしながら、ヒカルからの連絡を
待っていたに違いない。
 彼が今日も泊まるとは思っていなかっただろうし、かといって、急に元気のなくなってしまった
息子をあれこれ詮索するのも憚られて、ここに電話を掛けることも控えていたのだろう。
「ご心配をお掛けしてすみません…」
アキラは電話にぺこりと頭を下げた。


(230)
 誰かが、額に手を当てている。大丈夫。少し怠いけど、気分が悪いわけじゃない。むしろ、
温かくてふわふわして、とても気持ちがいい。
 その手が髪を梳いたり、頬を撫でたり………とても優しくて、ちょっとくすぐったい。
―――――誰?

 「起こした?ゴメン…」
「ん………塔矢…?」
起きあがろうとするヒカルの身体を、アキラが支える。
「気分はどう?身体は大丈夫?お腹へってない?」
矢継ぎ早に問われるが、頭の中がボンヤリしてその言葉の半分も理解できない。ただ、ここが
何処で、どうして自分がここにいるかそれだけはよくわかっている。
 「…………お母さんに電話しなくちゃ…」
今日、自分はここに泊まる。アキラの側ですごすのだ。すごく怒られて、「すぐに帰ってこい」と
言われるかもしれないけど、絶対に帰らない。ちゃんとこれが夢でないって、現実だって、納得するまで
ここにいる。
―――――塔矢がいいって言ったらの話だけどさ…

 ヒカルの言葉を聞いて、アキラが言った。
「大丈夫。ちゃんと泊めるって連絡しておいたよ。…………どうしたの?」
泣きそうな顔でアキラを見ていたらしい。
「………今日も泊まっていいの?」
「……………ボクが泊まって欲しいんだ。せっかく、キミが戻ってきたんだから…」

 『コイツ……どうしていつも、オレの欲しい言葉がわかるんだよ………』
ヒカルは、アキラに何か言葉を伝えたいと思ったが、その何かがわからない。すごく嬉しいのに、
泣きたくて仕方がない。とても複雑な気持ちだった。

 「どうかした?」
心配そうに覗き込むアキラに向かって、黙って首を振る。
「そう?それより、さっきキミが眠っている間に、アイス買って来たよ。食べる?」
家と同じ調子で「いらない」と言いかけて、慌てて「食べる」と言い直した。
 アキラの顔が輝いた。今まで以上に優しい目で、ヒカルを見ると
「ちょっと、待ってて。持ってくる。」
浮かれた様子で部屋を出て行った。その彼の背中をヒカルも熱く見つめた。


(231)
 アイスとスプーンを手に、アキラはすぐに戻ってきた。
「あ!高いヤツ…!」
ヒカルはつい叫んでしまい、慌てて、口を押さえた。
 アキラがそんなヒカルを見て、ちょっと人の悪い笑みを浮かべた。
「そうだよ。キミ、いつもこれを買いたそうにしていたよね?」

 二人でコンビニに出かけて、あれこれ見て回るとき、ヒカルはいつもこのアイスの入った
冷蔵庫の前で止まる。他の安いアイスクリームの入った冷凍庫とは、少し格が違うというか
高級そうな雰囲気を全体から、醸し出していて、ヒカルを誘惑するのだ。値段は、たかだか三百円そこそこ。
ヒカルにとっては、ちっとも高い買い物ではない。むしろ、安すぎる。それなのに、どういうわけか、
いつも、さんざん悩んだあげくやっぱり百円のアイスを買ってしまうのだ。
 不思議なことに毎回同じコトを繰り返し、アキラに呆れられていた。
「どうして買わないんだ?」
その呆れ声に、バツが悪そうに
「………だって……」
と、口籠もることまで、毎回同じだった。
 ヒカルにも理由はよくわからない。でも、憧れていたものを手に入れてしまうと、その思いが
急に薄れてしまいそうな気がした。それは、アイスのことではなく、もっと別の何かに対して、
そんな思いを抱いていたのかもしれない。

 アキラがアイスのフタを開けるのを見て、それくらい自分で出来るのに、と内心少し不満に
思った。彼はそれをヒカルの目の前にかざした。
 ヒカルはアイスを受け取ろうと、手を伸ばしたが、アキラは渡してくれなかった。
「なんだよ…?」
ムッと睨み付けたが、アキラはニヤニヤ笑ったままアイスにスプーンを突き刺した。
 何?と、キョトンとしていると、アキラはそれを一匙すくい、ヒカルの口元に差し出した。
「はい。口開けて。」



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