平安幻想異聞録-異聞- 229 - 232
(229)
「井戸はどこだ?!」
「西の雑舎の裏!」
アキラの問いに、間髪入れずにヒカルが答えた。
すぐに、その場所へ馬を走らせる。
自分達の出した答えが正解であることは、そこに辿りつく前に判った。
肉蛇たちの数が増え、攻撃がより執拗なものになったからだ。それは今までの
ように二人を喰らおうとするよりも、その場所から遠ざけようとする意図の方が
強いように思われた。
井戸が視界に入ったその時、ついにアキラの乗った馬が肉蛇に足を取られ、
恐怖の嘶きをあげて転倒した。アキラが地面に投げ出される。
その様子にヒカルの馬も尻込みしてたたらを踏み、その隙をついて、腹に
噛みついた肉蛇に引き倒された。
ヒカルは落馬する前に馬から飛び降りたが、アキラは受け身を取りそこねて、
したたかに左腕を打ち付けたらしい。うずくまり呻いている。
それを横から肉蛇の一匹が狙っているのを見て、ヒカルは慌てて駆け寄り、
その鎌首を一刀の元にはね飛ばした。
助け起こされたアキラが、ヒカルの背後を守るように背中合わせに立つ。
ねっとりと、呼吸をするのさえ困難なほどの濃い瘴気が、二人を包んでいた。
「なんかこうやってると、いよいよあの時の妖怪退治を思い出すな」
「あの時みたいに後があるんなら、良かったんだけどね」
目の前に集まってくる幾匹もの肉蛇どもを牽制するように太刀を構えながら
ヒカルはアキラと言葉を交わす。
三丈ほど先に井戸があった。
その井戸の中から生える、人の腕ふた抱えほどの太さの、節くれ立った木の幹の
ようなものが一本。
木と違うのは、そこから無数に延びる枝先が、今、ヒカル達を取り囲む肉蛇の
尻尾へと続いていることだ。幹はたくさんの瘤のようなものに埋め尽くされ、
ドクリドクリと脈打っている。その瘤のひとつが、泡が弾けるように割れて、
そこに新たな肉蛇が産まれて生えた。
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間違いない。これが本体。蠱毒の蛇の親玉だ。
あの蠱毒の壺の中で喰らいあい、殺し合って残った大ムカデの怨念が、
人の精を喰らい、心の闇を喰らい、化けた成れの果ての姿だ。
幾十もの肉蛇達がうねり寄り、互いに身を絡ませるようにして、井戸と
ヒカル達の間を遮る。
これを切り分け、肉蛇の数を減らして、本体を調伏できる程弱らせるには、
いったいどれくらい時間がかかるだろうか?
「長丁場は無理なんだったな」
「あぁ、悪いな」
ヒカルはすでに息が上がっていて、肩で呼吸してた。おまけに熱もあるらしい事が、
背中合わせに立っているアキラにも触れる背の熱さで知れた。
「わかった。一発勝負で行こう」
「どうするんだ?」
「僕が符術で道を開く。君はそこから飛び込んで、あの本体を直接切りつけてくれ」
大胆なアキラの提案。
「一太刀でいい。たった一太刀でいいんだ。君が奴の外皮に傷を作ってくれれば、
僕がそこに術力のすべてを叩き込んで、あれを内部から破壊してやる」
「わかった、やってみる」
どの道、ここで色々考え込んでも、益々周りを取り囲む肉蛇の数が増えるだけだ。
ヒカルは注意深く、蛇達が蠢く井戸への道筋を見極めながら言った。
「やれ、賀茂」
アキラが懐から、呪言の書き込まれた札を取りだし、呪文を唱えた後、
持っていた小太刀でその術符を縦に切り裂いた。
切り裂かれたその札から、青い炎が稲妻のように地を這い、井戸の方へ走る。
肉蛇の一部は焼かれ、一部はおたおたと炎から逃げ惑って、そこに数瞬だけ
道ができた。
ヒカルが、そこに飛び込む。
半刻前まで熱でふせっていたとは思えない、若い牡鹿のように鮮やかな
躍動だった。
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ひと息に井戸の側に走り寄り、そこに表皮を蠢かせている異形の本体に深々と、
調伏刀の刃を突き立てた。
――賀茂、今のうちに!
そう言おうとして、ヒカルの体を戦慄が走った。
抜けない。
刀が異形の体にめり込んだまま、動かないのだ。
力を込めて柄を引くが、ダメだった。
この十日以上ほとんど鍛練もせず、食事の量も減っていたために、腕の筋肉が
落ちていて、思ったように力が入らないのだ。
もたもたしているうちに、せっかく作った傷も、まわりから肉が盛り上がって
消えてしまおうとしている。
焦るヒカルの後ろに炎から逃げた蛇が戻ってきて、その喉笛を狙った。
もうダメかと目を閉じようとした時、何者かがその蛇を取り押さえた。
賀茂アキラだった。
ヒカルを追って飛び込んできたアキラが、ヒカルを狙っていた肉蛇の首を、
あろう事か素手で、地面に押さえ付けていたのだ。
あまりの目茶苦茶さに驚くヒカルの目の前で、押さえつけられた蛇が、
頭を返してアキラの肩に噛みついた。蛇の口の周りに鮮血が溢れた。
「くっそぉおお!」
ヒカルは、渾身の力を込め、異形を薙ぎ払うようにして刀を引き抜いた。
熱湯の中に放り込まれた貝のように、魔物の腹にパッカリと大きな傷口が開いた。
「賀茂!」
アキラが、蛇を肩に食いつかせたまま呪符を取りだし、印を切った。
「破邪!」
白い、目もくらむばかりの閃光があたりを包んだ。
それはまさに言葉通り、アキラの全霊をこめた一撃だった。
光が消えると、今度は大きな風が吹いてふたりを襲った。
元々体が万全でないヒカルの方が、風によろけて倒れた。
そのヒカルの体を飛んでくる木片や石つぶてから守ろうとするように、
アキラが体を重ねて伏せた。
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風がやんで起き上がってみると、目の前にあるのは、昔は綺麗な屋敷だったはずの
瓦礫の山。
石に埋まった井戸。
周囲には、焼け焦げた匂いが漂い、紙のようにカサカサに乾いた肉蛇達の残骸が
そこやここに、数えきれないほど転がっている。
その地面にポツリ、と黒い染みが出来た。
続いて、ポツリ、ポツリ、とその数は次々と……。
雨が降りだしたのだ。
ヒカルは空を見上げた。抜けるような秋の青空が広がっている。
だが、雨足はどんどん強くなっていくのだ。
雨に触れた異形の残骸が、大地に溶けるようにして、次々と消えていく。
降り続く雨は、大気にこもっていた瘴気を押し流し、呪言の痕跡を洗い流し、
この場所に染みついた人の怨念までも消し去っていくようだった。
あたり一面に、新鮮な水の匂いが満ちた。
時ならぬ不思議な雨は、まるで天からの贈り物のように地を打ち続ける。
二人とも、あっという間にびしょ濡れになってしまった。
今、生きてこの場に立っているのは、ヒカルとアキラ、そして少し離れて、
雨の中、怪我にもがき苦しむ二頭の白馬。
ヒカルはその馬に近寄った。二頭とも足が折れている。足が駄目になっては
馬は生きていけない。
「可哀相な事しちゃったな」
つぶやくヒカルに、アキラが笑った。
「大丈夫だよ」
言ったアキラの手が不思議な動きを見せた。
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