身代わり 23


(23)
薬品のにおいが鼻につく。頭の感覚が麻痺されていくような気がする。
正気を保っているのが難しい。ふとした瞬間、叫びだしたい衝動に駆られる自分がいる。
行洋は崩れそうになる理性と戦っていた。
だがそのことに誰も気付かない。
妻の明子も、息子のアキラも、弟子の緒方も。
病室で目覚めてから行洋は、自分が死んでしまったような気がしていた。
なにをする気にもならないのだ。
それを最初に感じたのは十段戦第三局の日、目が覚めて時計を見たときだった。
もし対局地が行ける場所でも、自分は行かなかっただろう。
そのくらい気力が自分のなかのどこを探してもなかった。
周囲は色あせたまま、なんの刺激も与えてはくれない。すべてが同じ色に見える。
だがちらりと明るい影が脳裏をよぎった。
行洋はふと倒れる瞬間のことを思い出した。誰かが自分を――――
「……塔矢先生」
ぎくりとして行洋は顔を上げた。広瀬が自分を見ていた。
そうだ、今日は碁会所の面々が見舞いにきてくれているのだ。
行洋は少しうつむき、笑みを浮かべた。
「広瀬さんにまで御心配かけてしまって……」
相づちを打ちながら、本心では早く出て行ってもらいたかった。
そう思う自分が嫌だった。
(病とは気を腐らせるものだな)
乾いた笑いを漏らしたとき、小さなノックの音が聞こえた。
「こ……こんにちは」
遠慮がちに入ってきた少年を見て、行洋は息をつまらせそうになった。
夢のなかにいた人物が現れた気がした。



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