初めての体験 Asid 23 - 24
(23)
ボクは迂闊に誘いに乗ったことを後悔した。いくら何でも、老人相手では、楽しめそうもない。
ボクのモットーは老人には優しくだ。碁会所の客は、中高年が多いので、親切にしておかないと
客に逃げられてしまう。お父さんがつくった碁会所を、ボクがつぶすわけにはいかない。
むかつく客にも笑顔で応対。それがプロだ。
誰も知らないだろうが、ボクの頭の中では、北島さんは既に百回は死んでいる。彼は、
進藤に…進藤に…あんな暴言を……!進藤の「来ない!」宣言がどれほどボクを落ち込ませたか!
思い出したら、悲しくなってきた。ああ…それより、現状を打開する方法を考えなければ―!
ボクの想像力を持ってしても、この桑原本因坊を進藤に見立てるのは難しい。はっきり
言って、ムリだろう。「五十年後の進藤だ」と思いこめば……だめだ!できない!!進藤が
こんな姿になるなんて思えない!思いたくない!五十年後も進藤は、猿の惑星何かじゃない!
愛くるしいポケットモンキーだ!……この老人とは、絶対ムリだ…!
………だが、試しもしないでムリだと決めつけるのも、どうだろうか…。最初から
負けを認めるのは、何より、ボクのプライドが許さない。これはボクに課せられた試練だ。
この老人を攻略してこそ、真の達人への道ではないだろうか?よし――――覚悟を決めよう。
「桑原先生…今日はお誘いいただいてありがとうございます。」
ボクは、最上の笑顔でにっこりと本因坊に笑いかけた。老人は横柄に頷いた。ムカつく。
が、それを堪えて、表面上はあくまでも穏やかに微笑んだ。
「先生のような方に、声をかけていただけるなんて光栄です。」
ボクは、彼の企みに気づかない振りをして、目を輝かせて見せる。それから、あれやこれやと
老人を誉め讃えた。誉められて悪い気はしないのか、老人の口元が僅かに弛む。ボクは、
口先では美辞麗句を並べながら、頭の中はフル回転で、どうやって老人を籠絡するかを
考えていた。
(24)
心にもないことを老人に言い続けるのに疲れた頃、料理が運ばれてきた。ボクは、
さりげなく料理を見分した。ふ…ん…やはり、椀物が怪しそうだ。
ボクは、巧みにそれをよけて口に運んでいく。本因坊の目が、ボクの動作を鋭く見ていた。
うーん、困った。一口ぐらいなら大丈夫なような気もするが…。
いつまでたっても、椀を口にしないのに焦れて、老人が催促する。
「飲まんのか?赤出汁は嫌いか?」
「ボク、好物は最後にとっておく主義なんです。」
そう言って、かわしたが老人は納得していないようだ。ウソじゃないのに…アッチの
趣味だって、進藤ではなく他の相手でガマンして――――和谷とか芦原さんとか…先生、
あなたとかね。うぅ、それなのに…老人は射るような視線を送ってくる。
ちィ…!仕方がない飲んでみるか…!ボクが飲むと、抑制が利かなくなりそうで怖いの
だが………。正気に戻ったとき、死体が転がっていたらどうしよう……。
ま、そうなっても、桑原本因坊の自業自得だよね。
ボクが、椀を口元に持っていったちょうどその時、老人に電話が入ったと仲居が呼びに来た。
忌々しげに舌打ちをして、本因坊は中座した。電話ならここで受ければいいと思ったが、
ここのは、内線専用らしい。ともあれ、お陰でボクは助かったわけだ。
桑原先生が部屋を出ていくと、ボクは素早く自分の椀と先生の椀をすり替えた。そして、
念のため、すり替えた椀の中身を庭に捨てた。自分の分にまで入れているとは思わないが、
念には念を入れないと…。
先生は、酒を飲むだけで料理にほとんど手をつけていなかったし…可能性はないとは
えない。ボクは、用心深い性格なので、極力危険は避けたいと思っている。
それにしても、もし…もしも…だ。老人がアレを飲めばどうなるか――実に興味深い。
ボクの好奇心が疼きだした。
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