平安幻想異聞録-異聞- 231 - 232
(231)
ひと息に井戸の側に走り寄り、そこに表皮を蠢かせている異形の本体に深々と、
調伏刀の刃を突き立てた。
――賀茂、今のうちに!
そう言おうとして、ヒカルの体を戦慄が走った。
抜けない。
刀が異形の体にめり込んだまま、動かないのだ。
力を込めて柄を引くが、ダメだった。
この十日以上ほとんど鍛練もせず、食事の量も減っていたために、腕の筋肉が
落ちていて、思ったように力が入らないのだ。
もたもたしているうちに、せっかく作った傷も、まわりから肉が盛り上がって
消えてしまおうとしている。
焦るヒカルの後ろに炎から逃げた蛇が戻ってきて、その喉笛を狙った。
もうダメかと目を閉じようとした時、何者かがその蛇を取り押さえた。
賀茂アキラだった。
ヒカルを追って飛び込んできたアキラが、ヒカルを狙っていた肉蛇の首を、
あろう事か素手で、地面に押さえ付けていたのだ。
あまりの目茶苦茶さに驚くヒカルの目の前で、押さえつけられた蛇が、
頭を返してアキラの肩に噛みついた。蛇の口の周りに鮮血が溢れた。
「くっそぉおお!」
ヒカルは、渾身の力を込め、異形を薙ぎ払うようにして刀を引き抜いた。
熱湯の中に放り込まれた貝のように、魔物の腹にパッカリと大きな傷口が開いた。
「賀茂!」
アキラが、蛇を肩に食いつかせたまま呪符を取りだし、印を切った。
「破邪!」
白い、目もくらむばかりの閃光があたりを包んだ。
それはまさに言葉通り、アキラの全霊をこめた一撃だった。
光が消えると、今度は大きな風が吹いてふたりを襲った。
元々体が万全でないヒカルの方が、風によろけて倒れた。
そのヒカルの体を飛んでくる木片や石つぶてから守ろうとするように、
アキラが体を重ねて伏せた。
(232)
風がやんで起き上がってみると、目の前にあるのは、昔は綺麗な屋敷だったはずの
瓦礫の山。
石に埋まった井戸。
周囲には、焼け焦げた匂いが漂い、紙のようにカサカサに乾いた肉蛇達の残骸が
そこやここに、数えきれないほど転がっている。
その地面にポツリ、と黒い染みが出来た。
続いて、ポツリ、ポツリ、とその数は次々と……。
雨が降りだしたのだ。
ヒカルは空を見上げた。抜けるような秋の青空が広がっている。
だが、雨足はどんどん強くなっていくのだ。
雨に触れた異形の残骸が、大地に溶けるようにして、次々と消えていく。
降り続く雨は、大気にこもっていた瘴気を押し流し、呪言の痕跡を洗い流し、
この場所に染みついた人の怨念までも消し去っていくようだった。
あたり一面に、新鮮な水の匂いが満ちた。
時ならぬ不思議な雨は、まるで天からの贈り物のように地を打ち続ける。
二人とも、あっという間にびしょ濡れになってしまった。
今、生きてこの場に立っているのは、ヒカルとアキラ、そして少し離れて、
雨の中、怪我にもがき苦しむ二頭の白馬。
ヒカルはその馬に近寄った。二頭とも足が折れている。足が駄目になっては
馬は生きていけない。
「可哀相な事しちゃったな」
つぶやくヒカルに、アキラが笑った。
「大丈夫だよ」
言ったアキラの手が不思議な動きを見せた。
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