平安幻想異聞録-異聞- 231 - 236
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ひと息に井戸の側に走り寄り、そこに表皮を蠢かせている異形の本体に深々と、
調伏刀の刃を突き立てた。
――賀茂、今のうちに!
そう言おうとして、ヒカルの体を戦慄が走った。
抜けない。
刀が異形の体にめり込んだまま、動かないのだ。
力を込めて柄を引くが、ダメだった。
この十日以上ほとんど鍛練もせず、食事の量も減っていたために、腕の筋肉が
落ちていて、思ったように力が入らないのだ。
もたもたしているうちに、せっかく作った傷も、まわりから肉が盛り上がって
消えてしまおうとしている。
焦るヒカルの後ろに炎から逃げた蛇が戻ってきて、その喉笛を狙った。
もうダメかと目を閉じようとした時、何者かがその蛇を取り押さえた。
賀茂アキラだった。
ヒカルを追って飛び込んできたアキラが、ヒカルを狙っていた肉蛇の首を、
あろう事か素手で、地面に押さえ付けていたのだ。
あまりの目茶苦茶さに驚くヒカルの目の前で、押さえつけられた蛇が、
頭を返してアキラの肩に噛みついた。蛇の口の周りに鮮血が溢れた。
「くっそぉおお!」
ヒカルは、渾身の力を込め、異形を薙ぎ払うようにして刀を引き抜いた。
熱湯の中に放り込まれた貝のように、魔物の腹にパッカリと大きな傷口が開いた。
「賀茂!」
アキラが、蛇を肩に食いつかせたまま呪符を取りだし、印を切った。
「破邪!」
白い、目もくらむばかりの閃光があたりを包んだ。
それはまさに言葉通り、アキラの全霊をこめた一撃だった。
光が消えると、今度は大きな風が吹いてふたりを襲った。
元々体が万全でないヒカルの方が、風によろけて倒れた。
そのヒカルの体を飛んでくる木片や石つぶてから守ろうとするように、
アキラが体を重ねて伏せた。
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風がやんで起き上がってみると、目の前にあるのは、昔は綺麗な屋敷だったはずの
瓦礫の山。
石に埋まった井戸。
周囲には、焼け焦げた匂いが漂い、紙のようにカサカサに乾いた肉蛇達の残骸が
そこやここに、数えきれないほど転がっている。
その地面にポツリ、と黒い染みが出来た。
続いて、ポツリ、ポツリ、とその数は次々と……。
雨が降りだしたのだ。
ヒカルは空を見上げた。抜けるような秋の青空が広がっている。
だが、雨足はどんどん強くなっていくのだ。
雨に触れた異形の残骸が、大地に溶けるようにして、次々と消えていく。
降り続く雨は、大気にこもっていた瘴気を押し流し、呪言の痕跡を洗い流し、
この場所に染みついた人の怨念までも消し去っていくようだった。
あたり一面に、新鮮な水の匂いが満ちた。
時ならぬ不思議な雨は、まるで天からの贈り物のように地を打ち続ける。
二人とも、あっという間にびしょ濡れになってしまった。
今、生きてこの場に立っているのは、ヒカルとアキラ、そして少し離れて、
雨の中、怪我にもがき苦しむ二頭の白馬。
ヒカルはその馬に近寄った。二頭とも足が折れている。足が駄目になっては
馬は生きていけない。
「可哀相な事しちゃったな」
つぶやくヒカルに、アキラが笑った。
「大丈夫だよ」
言ったアキラの手が不思議な動きを見せた。
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すると、馬の姿が掻き消えて、代わりにその場にポトリと落ちた、白い小さな
花をつけたヒイラギの小枝が二本。
「式神だったんだ」
目を見開いて感心するヒカルに、雨に濡れながらアキラはただ静かに微笑んでいた。
ヒカルは手を蒼穹にかざした。雨足は衰える様子がない。
容赦なく体を打つ雨は、しかし、熱を持ったヒカルの体にはひんやりと冷たく、
奇妙に優しかった。
「ははは……気持ちいい」
久しぶりに晴れやかに笑う。
「うん」
アキラも、顔が雨に晒されるのもかまわず、天を見上げた。
その賀茂アキラの肩にまだ残る、先ほどのの戦いの痕跡。
蛇に噛みつかれたその傷の血も、雨が洗い流してゆく。
その様子を眺めて、ヒカルが言った。
「おまえも、無茶するよなぁ」
「君の為なら、無茶のひとつもするさ」
「まさかおまえ、俺がお前の家で蛇に襲われたときの事、まだ気に病んでるって
ことはないよな? あれはしょうがな…」
「違う」
「じゃあ―」
「僕が、君を好きだからだよ」
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アキラの口からするりと落ちた、その告白に、ヒカルは驚いて天に
掲げていた手を降ろした。
「言っておくけど、友達とか仲間とかそういう意味じゃないから。佐為殿と
同じ意味で、君が好きなんだ」
雨の中で天を仰いだまま。自嘲するように、アキラは微かに顔をゆがめる。
その頬を、雨水が光りながら次々とすべり落ちていく。
「ずっと秘密にして、死ぬまで誰にも言わないつもりだったのに、なんでかな
……急に君に言いたくなってしまった」
ヒカルは口をつぐんで、アキラの言葉の先を待った。
「だけど、僕がこの気持ちに気付いたとき、君はすでに佐為殿のものだった」
アキラがヒカルを見た。その表情はどこかこの世の者でないみたいに透明で、
ヒカルは、その時アキラを、佐為に負けないくらい綺麗だと思った。
まっすぐな視線を受け止める。夜の湖水のように黒々と深く、静かで美しい
瞳だった。
そういえばアキラが操る式神は、どれも美しい。射干玉の羽根のカササギも、
十二単衣の女も、白い駿馬も。式神や妖しと言ったものが、ヒカルが思う通り、
それを使う人の心から生まれるものならば、まさにあれはアキラの心をそのまま
写した形なのだ。
「佐為の…って……。そんなのまだわかんないじゃん?! お前…本当に俺が
好きだっていうなら、諦める前にもっとなんとかしてみろよ!」
「君がそれを言うのか?」
冷たさを含んだアキラの問い掛けに、言葉を失った。アキラの言う通りだ。
自分は今、アキラを元気付けたくて、心にもない上っ面だけの言葉を並べてしまった。
佐為とアキラ、どちらがより好きかと聞かれたら、そんなの答えは決まっている。
きっと死ぬまでそれは変わらない。アキラだけじゃない、他の誰を並べても。
自分はもう、佐為以外は選べない。
ようやく緩くなった雨足に、アキラは濡れて額にに張り付いた髪を掻き上げた。
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「もし、僕のほうが先に出会っていたらと思う。もし来世で同じことがあったら、
今度こそ、僕が君の魂を佐為殿から奪ってやるのに」
俯いて、独白するように言ったアキラの肩に、どこからか、あの黒い鳥―カササギが
戻って来てとまった。
小雨の中、向きを変え立ち去ろうとするその後ろ姿に、ヒカルは考える。
アキラの言葉がいやに空虚に響くのは何故だろう。彼らしくない。
そしてヒカルは、その理由が、アキラが『来世で』といいつつ、実際には
来世なんて信じていないからなのではないかと気付いた。
「待てよ!」
呼び止めたヒカルに、アキラがもう一度こちらを見た。
雨がやんで、周囲が明るくなる。湿気を含んで吹く風が、春のように心地よく
ぬるい。
「おまえ、生まれ変わりとかって本当に信じてる?」
「そうだね。信じても信じなくてもあまり代りはないさ、僕にとってはね。
仏の言うように輪廻というものがあるなら、なおさらだ」
「どういう意味だよ、それ」
「僕は陰陽師だからね。神の手にならざるものをモノを呼びだし、仏の教えの
外のモノを使い、呪い、時には殺め、神仏が定めた自然のことわりを、
呪文一つで捩じ曲げる。それが生業だ。そんな僕に、仏が輪廻の機会を
与えてくれると思うかい?」
瞳をゆらすヒカルを、アキラが苛烈に見返した。
「地獄行き決定だね」
きびすを返し、ヒカルに背を向ける、自分と同じ年の陰陽師の小さな背中。
「それが、陰陽師という生き物の定めなんだよ」
ヒカルには、歩み去るアキラを引き止めることが出来なかった。
ただ、水たまりとぬかるみの真ん中につっ立って、その姿を見送ることしか
出来なかった。
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空を見上げ、それから下を向き、足元の水たまりに映る雲の動きをどれほどの
時間、ぼんやりと眺めていたのだろう。
髪や服から落ちた水滴が、そこに落ちては幾つもの波紋を作る。
胸が痛くなるほど好きな声に、名を呼ばれて顔を上げた。
目の前に佐為が立っていた。
座間邸の残骸の中に、ヒカルが良く知る白い狩衣姿で。
二人とも、さっきの雨で濡れ鼠だ。
佐為の髪はすっかり濡れそぼって、先からポタポタと水が落ちている。
白い着物も、あの騒ぎの中を駆け回ったせいで、裾が泥に汚れて、灰色に
染まっている。
だけど、その光景はまるで一幅の絵のように綺麗だと、ヒカルは思った。
あたりを見渡すと、木片や板がぬかるみに沈んで、倒壊した屋敷の間には、
すでに妖魔の遺骸さえ転がっていない。
全部が終わって、今、ヒカルがやりたいことなんて、たったひとつだ。
だから、ヒカルはその本能に従った。佐為に駆けよる。少し伸び上がって、
その美しい長い髪ごと、佐為の体を抱きしめる。――やさしく抱きしめ返される。
佐為の胸の中、大好きな菊の香の薫りを胸いっぱいにすいこみながら、
ヒカルはつぶやいた。
「佐為と寝たいな」
それはヒカルの正直な気持ちだった。
体中にこの十日間、嬲られ続けた感触が残っている。本当をいうと、今は、他の
人間に肌に触れられるだけでも嫌なのだ。
でも、きっと、佐為なら大丈夫。佐為になら触れて欲しかった。
「ヒカルの体が、ちゃんと全快したら、ですね」
佐為は、小さくヒカルの耳元でささやいた。ヒカルはそれだけで、背筋にしびれが
走った気がして、ギュッと佐為の背に回した手に力を込めた。
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