平安幻想異聞録-異聞- 236 - 240
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空を見上げ、それから下を向き、足元の水たまりに映る雲の動きをどれほどの
時間、ぼんやりと眺めていたのだろう。
髪や服から落ちた水滴が、そこに落ちては幾つもの波紋を作る。
胸が痛くなるほど好きな声に、名を呼ばれて顔を上げた。
目の前に佐為が立っていた。
座間邸の残骸の中に、ヒカルが良く知る白い狩衣姿で。
二人とも、さっきの雨で濡れ鼠だ。
佐為の髪はすっかり濡れそぼって、先からポタポタと水が落ちている。
白い着物も、あの騒ぎの中を駆け回ったせいで、裾が泥に汚れて、灰色に
染まっている。
だけど、その光景はまるで一幅の絵のように綺麗だと、ヒカルは思った。
あたりを見渡すと、木片や板がぬかるみに沈んで、倒壊した屋敷の間には、
すでに妖魔の遺骸さえ転がっていない。
全部が終わって、今、ヒカルがやりたいことなんて、たったひとつだ。
だから、ヒカルはその本能に従った。佐為に駆けよる。少し伸び上がって、
その美しい長い髪ごと、佐為の体を抱きしめる。――やさしく抱きしめ返される。
佐為の胸の中、大好きな菊の香の薫りを胸いっぱいにすいこみながら、
ヒカルはつぶやいた。
「佐為と寝たいな」
それはヒカルの正直な気持ちだった。
体中にこの十日間、嬲られ続けた感触が残っている。本当をいうと、今は、他の
人間に肌に触れられるだけでも嫌なのだ。
でも、きっと、佐為なら大丈夫。佐為になら触れて欲しかった。
「ヒカルの体が、ちゃんと全快したら、ですね」
佐為は、小さくヒカルの耳元でささやいた。ヒカルはそれだけで、背筋にしびれが
走った気がして、ギュッと佐為の背に回した手に力を込めた。
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あの騒ぎの後、座間の姿を見たものはいない。遺体も発見されなかった。
平安京の右京のはずれのある家からは、今回の呪詛に関わったらしい陰陽師が、
何者かに切り裂かれ、食われたような無残な姿で発見された。
内裏では、座間がいなくなった事により空位になった地位を巡って、すでに
貴族達の権力争いが起きているという。
事件の後、賀茂アキラが近衛の家に来て、何が起こっていたのか、ヒカルの
知らない部分を説明してくれた。藤原の血を引く梅壺女御、その彼女と
帝の寵愛を競う桐壷女御。座間家の血を引くその桐壷が、三人の子を
もうけながら男子に恵まれなかった事。反対に、それまで懐妊の気配のなかった
梅壺が初めて宿した腹の中の子が、易占によって男子であると判ぜられた事。
もし本当に梅壺の子が男子であり、皇太子となれば、その血筋である藤原派閥の
権力はより揺るぎないものになるだろう。反対に桐壷を推していた座間派の
零落は否めない。だからこそ、座間は魔物と契約を結び、呪詛によって、
梅壺女御とその腹の子の命を奪おうとしていたのだ――。
「まわりくどい言い方をしないで説明するとね、君は梅壺女御様を殺める呪法の
ための、魔物の供物にされかかったんだよ」
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アキラにそう説明されてヒカルは、自分がいつのまにか、思いもしないような
大きな事件に巻き込まれていたことに気付き、改めて震え上がった。
一人になってからヒカルは、座間邸に自分が捕らわれた最初の日、座間が
言っていた事を思い出した。
『わしがお前を使って、佐為の奴や、行洋の失脚でも狙うとおもうたか?
そのようなこと、わざわざお前ごとき小者を使わんでも、いくらでも
やりようはあるわ』
だが結局これでは、座間は梅壺女御を呪殺し、政治的権力を守るために
ヒカルを利用しようとしたことにならないだろうか?
大貴族として高い矜恃を持っていた彼を、そんな風に、前言をひるがえさせる程に
追いつめたものとは、いったい何なのだろう?
ヒカルは、座間をそこまで追いこんだ、人の心の闇について思った。
そして、その人の心の闇を生み出した、あの内裏という場所が内包する、
なお濃い闇の深さを思った。
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近衛の家で、ゆっくり体を休めることになったヒカルだが、それでも全ての
傷が癒えるまでひと月もかかってしまった。
母も祖父も、ヒカルが座間派に呪をかけられて酷い目にあったらしいと
漠然と知ってはいたが、事件の本当の細かい顛末までは知らない。宮中でも、
この十日間の間に何があったのか知っているのは、事件に関わったごくごく
一部の者たちだけだった。ヒカルはひと月間検非違使の仕事は丸々休んで
しまうことになったけれど、加賀や三谷、筒井たち、検非違使仲間が、精のつく
食べ物をいろいろ持って、見舞いに来てくれた。あげくに和谷、伊角といった
やんごとなき方達までヒカルの見舞いに現れたものだから、ヒカルの母は、
何か失礼があっては大変と、また右往左往することになり、近衛の家はそれなりに
にぎやかで、明るい笑いに包まれていた。
そして、その明るい家の空気こそが、実はヒカルの1番の薬となっていて、
最初の頃、ヒカルは夜にうなされることも多かったが、徐々にそれもなくなって
いった。
「なんだかさぁ、やっぱ、自分の家って、いいなぁと思うよ」
床に伏したまま、ヒカルは佐為に語りかける。
佐為は、ヒカルが帰宅してすぐの頃は毎日、そしてこのところは三日と
開けずに近衛の家を訪れ、泊まっていくことも多かった。家に帰ってきて
最初の頃、夜になるたびに悪夢を見ていたヒカルが、それを乗りきれたのは、
佐為がいつも近くにいて、そっと手を握ってくれていたからだと、ヒカルは思う。
そして、ちょうどひと月目の夜に、ヒカルは、隣りで寝ている佐為の腕を
そっとひっぱり、内緒話のようにささやいた。
「ねぇ、佐為。しよう」
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家族はすでに寝静まっていた。
佐為はヒカルの部屋に敷かれた客用の床について、今まさに
寝入ろうとしていた時だった。
その言葉に佐為は、すぐ隣りで寝ているヒカルを見返した。
ヒカルの瞳は、いつかのように真っすぐこちらを見ている。
「オレ、もう大丈夫だよ」
そうヒカルが笑うのに笑い返して、佐為は緩やかな動作で自分の床を出ると、
並んで敷かれたその褥に潜り込んだ。
「平気だから」
重ねて言うヒカルの、少し潤んだ瞳に吸い寄せられるように、佐為は前より艶を
増したその唇に自分のそれを重ねる。最初は浅く唇を撫でるように。
そして、徐々に深く。
夜着の間から忍び込んで、背中に回された佐為の手の感触に、ヒカルの肌が
ふるりと震えた。
佐為の手の冷たさのせいでもなく、快楽のせいでもなく、それは体に
わずかに残る、情交への恐怖のためだった。
座間邸で刻み込まれた肌を交わらす事への怯えと嫌悪感は、ヒカル本人が
思ってる以上に、その体に深く刻み込まれてしまっている。
ヒカルの肌を背中から腰へ、そして臀部へと愛撫し、手の平を滑らしながら、
佐為はそれを敏感に感じ取ってしまった。
「ヒカル、やっぱり今夜はやめておきましょう」
「え?」
「体の傷は確かに癒えたかもしれません。でも心の傷というのはそんなに簡単に
癒えるものではないのですよ」
「でも…」
「そのかわり、今日は私はこうしてずっと、ヒカルのことを抱きしめて
いましょう」
そう言って、佐為は夜着の下から手を抜き、改めて着衣の上からヒカルの
背に手を回した。
「でもさ…」
「なんです?」
ヒカルが佐為の腕の中から、大きな目で佐為を見上げた。
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