日記 236 - 240


(236)
 「これを片づけてくるよ。」
アキラは、アイスクリームの入れ物を持って部屋を出た。

 アキラが部屋に戻ったとき、ヒカルはもう眠っていた。後片づけにそれほど時間を掛けては
いない。ほんの二、三分だ。
 ヒカルはベッドの端に身体を寄せて、身体を丸めて眠っている。灯りを消して、ちょうど
一人分空けられたその空間に身体を滑り込ませて、ヒカルと向き合うように横になった。
 アキラの鼻先にヒカルの柔らかい髪が微かに触れた。甘酸っぱい香が、鼻腔を擽る。手探りで
枕元においてあるリモコンを取った。
――ピッ
優しい風を送るエアコンの温度を一度下げた。
 暫くすると、ヒカルがもぞもぞと自分の方へ寄ってきた。温もりを求めて、アキラの胸に
顔を埋め、身体をぴったりと押しつける。アキラはニンマリ笑って、彼の身体を抱き寄せた。


 腕の中のヒカルに話しかけた。
「…………今度、一緒に海に行こうか?」
ヒカルは、スウスウと優しい寝息を立てている。
「すぐには無理だけど、キミが元気になったら……海に行きたいんだ……」
「……………そんなの待っていたら、秋になっちゃうよ……」
アキラはビクリと身体を揺らした。
「キミ、起きてたの?」
「………行っても、泳げネエよ…」 
口の中で呟くように話すヒカルを抱く腕に力を込めた。
「いいんだ……キミと行きたいんだ…散歩するだけでもいいから…海に行きたい…」
「…………」
ヒカルがアキラのパジャマの胸をギュッと握った。


(237)
 「ボクは夏の計画をいろいろ立てていたんだよ。」
「………へえ…どんな?」
興味深そうに訊ねられて、うれしくなった。声が弾む。
「縁日に行ったりとか……」
「リンゴ飴買ったり?」
「そう。金魚すくいしたり………」
「オレ、うまいぜ。」
ポイが破れても、端を使ってすくえるんだ――と、ヒカルがうれしそうに笑った。
「そんな感じだね。是非、腕前を披露してもらいたいよ。」
彼が楽しそうだと、アキラも楽しい。
「他には?」
「う〜んと、かき氷食べたり…」
「ふーん…」
「二人で食べようと思って、氷かき器まで買ったんだよ…」
「わざわざ?」
少し呆れたような声に、少しばかりきまりが悪かった。
「うん。ちゃんとシロップも買ってある。ヒカルは、イチゴとレモン、どっちが好き?」
「どっちも好きだよ…他には?」
ヒカルは少し身体を持ち上げて、アキラの胸に乗るようにして先を強請った。
「また、花火をしたい。」
「打ち上げ花火とか?」
「いいね。前にしたときは出来なかったし………」
二人で花火をしたときのことを思い出した。なんだか、ずいぶん昔のような気がする。あの時、
ヒカルがアキラを気遣ってくれて………すごく楽しかった。
 ヒカルも黙ってしまった。同じ事を考えているのだろうか?薄暗い部屋の中では、ヒカルの
表情はよく見えない。また悲しそうに眉を寄せて、涙を堪えているのだろうか?
 ヒカルはアキラの胸に顔を伏せて、小さく言った。
「………オレ、オマエにもらった花火……ちゃんと持ってる…」
痩せた背中を撫でると、小刻みに震えていた。
「今度、二人で上げよう。ロケット花火もたくさん買って、全部打ち上げよう…」
ヒカルは、黙って何度も何度も頷いた。


(238)
 携帯電話から軽快なメロディーが流れ、着信ランプが点滅する。画面には、メール受信と
表示されている。相手の名前を確認して、ヒカルはうれしそうに笑った。
「塔矢からだ…」
 手に入れたばかりの新しい携帯には、現在、一人しか登録されていない。だから、名前を見なくとも、
本当は誰から掛かってきたのかわかっていたのだ。
 メールボックスを開いてみると、待ち合わせ場所の変更が指示されていた。今日、アキラは
『週刊碁』の取材で、棋院に行っている。午後には終わるので、その後、二人で碁会所で打って、
それからアキラのアパートへ向かう予定だ。
 「どうして、場所変えたんだろう………」
ヒカルは、何度も首を捻った。いつもの待ち合わせ場所は、棋院近くの喫茶店。アキラが指定した喫茶店は、
棋院を挟んで反対側にあり、やや不便なところにあった。
 ヒカルは和谷の暴走のきっかけとなった喫茶店でのキスを、見られていたことを知らなかった。
アキラがそれに連なる記憶から、ヒカルを遠ざけたいと思っていたことももちろん知らない。
「まあ、いいか……」
アキラにはアキラの考えがあるのだろう。待ち合わせ場所の変更なんて、たいした問題ではない。

 「あーあ…アイツ早く来ないかな………」
テーブルの上に携帯ゲームを置いて、ヒカルは溜息を吐いた。コンピュータ相手の対局は、
簡単すぎて、ヒカルには暇つぶしにもならない。二度目にもらったメールには、約束の時間に
遅れそうだと入っていた。
 少しでも早くアキラを見つけようと、ヒカルは外に視線を廻らせた。ちょうどそのとき、
ガラスを一枚隔てた向こうに知っている人の姿を見つけた。自分に気付かず、通り過ぎようとするその人に、
ヒカルはウィンドウを叩いて、振り向かせようとした。


(239)
 ドンドンとガラスを叩く音がして、「何だ?」とそちらの方へ顔を向けた。よく知っている
相手が自分に向かって一生懸命手を振っている。
「進藤………」
手招きされるまま、伊角は店の中に入っていった。

 「伊角さん…」
ヒカルがにっこりと笑いかけた。その笑顔に胸が高鳴る。最後に見たときより、ずっと健康そうで、
血色もよく、身体にもいくらか肉が付いているようだ。だけど、伊角の心を捕らえた儚さや
少女のような可憐さは今もその表情の上に留まっていて、平静に振る舞うのが難しかった。
「えーっと……ゴメンなさい…迷惑かけて…」
伊角が自分の前に座ると同時に、ヒカルは頭を下げた。
「いや、いいんだ。それより、もういいのか?」
「うん……もう、平気…」
ヒカルが恥ずかしそうに俯いた。 薄く染まった頬に、ほのかな色香を感じて目を逸らす。
アキラとうまくやっているのだと知り、少し胸が痛んだ。
「そうか………」
よかったと思う反面、残念だとも思う。ヒカルを救う役目が自分であればよかったのに―
と、ほんの少し考えていた。
―――――バカだな……オレは…
運ばれてきたアイスコーヒーを口に含みながら、自嘲した。ヒカルは伊角の顔に浮かんだ
笑みの意味を誤解したらしく、ニコニコと笑っている。そんなヒカルを愛しく思い、伊角も
本当の微笑みを返した。そして、暫く以前のように他愛ない会話を愉しんだ。
 「伊角さん…大きな荷物だね。どこか行くの?」
ふと、ヒカルが伊角の隣の座席におかれた大きな紙袋に目をとめて、不思議そうに訊ねてきた。


(240)
 伊角は、一瞬、どう答えようかと思った。これは自分のものではない。使いを頼まれたのだ。
ハッキリ言って気の重い……出来れば引き受けたくなかった仕事だが、どうしてもと
伏し拝まんばかりに頼まれ、了承してしまったのだ。

 興味深そうに、紙袋を見ていたヒカルの顔から、見る見る血の気が引いていく。伊角が
慌てて、座席の下にそれを隠したが、もう遅かった。
「ヤダ、ヤダ、ヤダ………!どうして、そんなの持ってるんだよ…」
ヒカルが小さく悲鳴を上げた。
 袋の中身は、あの日、ヒカルが和谷のアパートに置いてきたリュックだった。
「………頼まれたんだよ…」
伊角は、仕方なく事情を話した。

 「いらない…!そんなのいらない!捨てちゃってよ!」
今にも泣きそうな声で、ヒカルは伊角に訴えた。
「でも、財布も携帯も鍵も入っていたぞ。大切なものじゃないのか?」
悪いとは思ったが、一応中身を確認させてもらった。どれもみな、必要なものに思える。
これがないとヒカルが困るのではないかと思ったことも、使いを引き受けた理由の一つだ。

 「いらない……全部いらない……」
「進藤………」
伊角はどう宥めればいいのかと、弱り果てた。



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