失楽園 24 - 25
(24)
緒方は気怠げにソファの前まで歩み寄ると、ヒカルの胸元に手を伸ばした。遠慮なく伸
ばされた緒方の手から逃れるように身体を捩ったヒカルは、ソファの背に背中をぴたりと
着けた。追い詰められた猫さながらに。
「ふぅん…怯えているのか?」
「……っ、誰が」
ヒカルの喉元をゆっくりと指先で擽りながら、緒方は酷薄の笑みを浮かべる。アキラも
凛とした美しい眼をしているが、この子の強い眼差しもどうだ。まだほんの子供のような
のに…アキラの誘いを拒否できる強靭な意志さえ、この子供は備えているのだ。
「安心しろ、もうおまえには手を出さん。――喉が渇かないか」
「すっげ渇いた」
一つ頷くと緒方は踵を返し、リビングと繋がっているキッチンへ向かう。
「オマエが飲めそうなものといえば、オレンジジュースとミネラルウォーターしかないが」
「両方欲しいや」
こういった場面でのヒカルの遠慮のなさは、アキラには決してないものだった。だが、
その無遠慮さは子供らしくとても好感が持てるものである。ヒカルの希望通りに、緒方は
グラス2つと、冷蔵庫の中から取り出したボトルを持ちリビングへ取って返した。
ヒカルは緒方がグラスに注ぎ手渡した水を一気に飲み干した。緒方が呆れ顔で2杯目を
満たすと、それも勢いよく傾ける。
緊張し、そして泣き、身も世もなく喘いだのはほんの1時間ほど前のことだ。
ヒカルの喉が常になく渇えているのは当たり前のことだった。
(25)
「先生もオレンジジュース飲むの?」
グラスをテーブルに置いたあと、思い出したようにヒカルが顔を上げた。
「いや…。彼が飲むだろうと思って」
二人の間に、沈黙が落ちる。今まで喋っていたのはこの沈黙を避けるためだったのかと
思わずにいられないような沈黙だった。
「……彼、ね」
ヒカルはぼそりと繰り返し、まだ栓を開けられていないトマトジュースにしか見えない
真っ赤な液体の入ったオレンジジュースのボトルを見遣る。
緒方がこれを買い置いているのはたまたまだったのか、それとも『いつかあるかもしれ
ないアキラの訪問』に備えてだったのか、そう信じたい自分の希望を満たすためだったのか。
ヒカルには判らないでいる。そして、ヒカルが見ているものを無表情で眺めている緒方も
その真意を解らないでいるに違いなかった。
「緒方先生…アイツは?」
「――シャワーを浴びてる」
「そっか」
緒方とアキラが今まで寝ていたことは今更疑いようのない事実だった。緒方の少し乱れた
髪や、スラックスの皺や匂いがそう知らしめている。
アキラを再び捕らえたことを、ヒカルに無言のうちに見せ付けている。
自分でアキラの手を拒んだはずなのに――ヒカルはそれらを複雑な思いで見ていた。
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