黎明 24 - 26
(24)
寒い。
どうして俺はこんな所にいるんだろう。
どうして俺はこんなに寒いんだろう。何が辛くて、何が怖くて、俺はこんな闇に逃げ込んだんだ?
求めたものは、懐かしいのは柔らかな暖かい微笑み。春の日差しのような優しい淡い光。
あの柔らかな笑みがなくなってしまったのが悲しくて、それでこんな堅く厚い繭を紡いでその中に
篭った。けれど気付いたときにはその中にいたのは自分一人で、あの暖かい日差しからは更に
遠く離れてしまった。
ああ、あの光が消えてしまったのが、俺は辛かったんだ。
あの暖かな光の中で微笑んでいたのは。
霞の向こうに遠く、白い人影が見えた。ただ懐かしさだけで溢れてしまいそうな思いで、朧なその
人影に向かって手を伸ばした。長い豊かな黒髪の、長身のその人はゆっくりと振り向く。薄紅色
の花びらがひらひらと舞い落ちる。
「……さい…」
震える呼びかけに、振り向いたその人は優しく微笑む。
ああ。
こんな所にいた。
こんな所にいたのか。
会いたかった。
おまえに会いたくて、会いたくて、それで俺は――
「……ヒカル?」
呼びかける声に答えるように彼の名が呼ばれた。
「………佐為…!」
そしてその人にがむしゃらに抱きついた。もう二度と、決して離すまいと。
「佐為……佐為、…佐為、佐為、佐為、」
涙を流し、満身の力をこめて、その暖かい身体にしがみついた。
(25)
けれどしがみついた感触に捨て切れない違和感を感じて、ヒカルは恐る恐る彼の名を呼んだ。
「……佐為…?」
目を見開いてそこにいた人物を見て、ヒカルは息をのんだ。
彼と同じく艶やかな漆黒の、けれど彼の流れる長く豊かな黒髪とは異なる、顎の先ですっぱりと
切りそろえられた髪。
春の日の穏やかさとはほど遠い、厳しい冬の、鋭く切り裂くような黒い瞳。
佐為、じゃない。
ではこれは誰だ?
知っている。
見覚えのある、この瞳。
そうだ。俺は知っている。この黒い瞳は。
「賀…茂……?……賀茂……明…?」
ああ、そうだ。彼だ。思い出した。
あの頃、佐為と一緒にいた頃、俺の前に現れた厳しい目をした陰陽師。
そのかたくなな眼差しを、誰も寄せ付けないピリピリと冷えた空気を、俺はその時とても悲しく思った。
そしておまえはやはり変わらない。変わらずにあの時と同じような鋭い目で俺を見る。
やめてくれ。そんな目で俺を切り裂くのはやめてくれ。
「……近衛、」
呼びかける声に、ヒカルは苦しげな声で応えた。
「やめて…くれ…」
「…何が?」
「その名で、呼ばないでくれ。もう俺はその名は捨てたんだ。」
(26)
記憶は明瞭ではなかった。
けれど薄っすらと、何があったのか――自分が何をしていたかは覚えていた。
この屋敷での事。そしてここに来る前の事。そして更にその前のこと。毒を呷るように闇に囚われ
た自分を、消しようのない汚濁に汚された自分を、絶望に打ち震えていた自分を、耐え切れぬ
悲しみと怒りに全てを手放そうとした自分を、思い出した。
思い出したくはなかった事を、彼は自らの内に取り戻してしまった。
「……俺なんか、放っといてくれれば良かったのに…」
自嘲するように小さく吐き捨てた。
応えを求めての呟きではなかったが、それでも何の応えも無いのが何故か不安で、傍らに座る
彼を見上げた。静かな眼差しが、けれど問い質すようにヒカルを見つめていた。怯えたように、
その眼差しから目をそらした。
いっそ責め詰るような言葉を投げかければよいものを。なぜ何も言わない。
突然苛立たしさを感じて、挑発するように彼を見上げた。
「何か、言えよ。」
彼がぴくりと眉を動かした。
「言いたいんだろう。言えよ。黙ってねぇで。」
ヒカルの挑発には不釣合いな落ち着いた静かな声で、彼は応えた。
「名を捨てたいと、言うのはなぜだ。
名を捨てて、どうなると言うんだ。どうするつもりだ、君は、これから。」
「これから?」
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