黎明 24 - 28


(24)
寒い。
どうして俺はこんな所にいるんだろう。
どうして俺はこんなに寒いんだろう。何が辛くて、何が怖くて、俺はこんな闇に逃げ込んだんだ?
求めたものは、懐かしいのは柔らかな暖かい微笑み。春の日差しのような優しい淡い光。
あの柔らかな笑みがなくなってしまったのが悲しくて、それでこんな堅く厚い繭を紡いでその中に
篭った。けれど気付いたときにはその中にいたのは自分一人で、あの暖かい日差しからは更に
遠く離れてしまった。
ああ、あの光が消えてしまったのが、俺は辛かったんだ。
あの暖かな光の中で微笑んでいたのは。
霞の向こうに遠く、白い人影が見えた。ただ懐かしさだけで溢れてしまいそうな思いで、朧なその
人影に向かって手を伸ばした。長い豊かな黒髪の、長身のその人はゆっくりと振り向く。薄紅色
の花びらがひらひらと舞い落ちる。
「……さい…」
震える呼びかけに、振り向いたその人は優しく微笑む。
ああ。
こんな所にいた。
こんな所にいたのか。
会いたかった。
おまえに会いたくて、会いたくて、それで俺は――
「……ヒカル?」
呼びかける声に答えるように彼の名が呼ばれた。
「………佐為…!」
そしてその人にがむしゃらに抱きついた。もう二度と、決して離すまいと。
「佐為……佐為、…佐為、佐為、佐為、」
涙を流し、満身の力をこめて、その暖かい身体にしがみついた。


(25)
けれどしがみついた感触に捨て切れない違和感を感じて、ヒカルは恐る恐る彼の名を呼んだ。
「……佐為…?」
目を見開いてそこにいた人物を見て、ヒカルは息をのんだ。
彼と同じく艶やかな漆黒の、けれど彼の流れる長く豊かな黒髪とは異なる、顎の先ですっぱりと
切りそろえられた髪。
春の日の穏やかさとはほど遠い、厳しい冬の、鋭く切り裂くような黒い瞳。
佐為、じゃない。
ではこれは誰だ?
知っている。
見覚えのある、この瞳。
そうだ。俺は知っている。この黒い瞳は。

「賀…茂……?……賀茂……明…?」
ああ、そうだ。彼だ。思い出した。
あの頃、佐為と一緒にいた頃、俺の前に現れた厳しい目をした陰陽師。
そのかたくなな眼差しを、誰も寄せ付けないピリピリと冷えた空気を、俺はその時とても悲しく思った。
そしておまえはやはり変わらない。変わらずにあの時と同じような鋭い目で俺を見る。
やめてくれ。そんな目で俺を切り裂くのはやめてくれ。
「……近衛、」
呼びかける声に、ヒカルは苦しげな声で応えた。
「やめて…くれ…」
「…何が?」
「その名で、呼ばないでくれ。もう俺はその名は捨てたんだ。」


(26)
記憶は明瞭ではなかった。
けれど薄っすらと、何があったのか――自分が何をしていたかは覚えていた。
この屋敷での事。そしてここに来る前の事。そして更にその前のこと。毒を呷るように闇に囚われ
た自分を、消しようのない汚濁に汚された自分を、絶望に打ち震えていた自分を、耐え切れぬ
悲しみと怒りに全てを手放そうとした自分を、思い出した。
思い出したくはなかった事を、彼は自らの内に取り戻してしまった。
「……俺なんか、放っといてくれれば良かったのに…」
自嘲するように小さく吐き捨てた。
応えを求めての呟きではなかったが、それでも何の応えも無いのが何故か不安で、傍らに座る
彼を見上げた。静かな眼差しが、けれど問い質すようにヒカルを見つめていた。怯えたように、
その眼差しから目をそらした。
いっそ責め詰るような言葉を投げかければよいものを。なぜ何も言わない。
突然苛立たしさを感じて、挑発するように彼を見上げた。
「何か、言えよ。」
彼がぴくりと眉を動かした。
「言いたいんだろう。言えよ。黙ってねぇで。」
ヒカルの挑発には不釣合いな落ち着いた静かな声で、彼は応えた。
「名を捨てたいと、言うのはなぜだ。
名を捨てて、どうなると言うんだ。どうするつもりだ、君は、これから。」
「これから?」


(27)
訳のわからない事を言っていると思った。「これから」などというものは自分にはなかった。為すべき
事など何も持たなかった。彼を守る事。たった一つの目的を失って、一体何を為せるというのだ。
「…する事なんか、何にもねぇ。俺なんか、要らないんだ。いなくっていいんだ。」
真実、思う通りのことを口にした。己の存在など不要だと、ヒカルは固く信じていたから。
「あいつを守れなかった俺に、何ができる?何をする事がある?
しなきゃいけない事なんて、何にもねぇよ…!」
「だから、あんな風に逃げたのか。」
「…ああ、逃げたよ。それがなんだよ。おまえに何がわかるって言うんだよ…」
けれど彼は応えない。応えずにただ黙ってヒカルを見据える。その静かな眼差しが恐ろしかった。
沈黙に耐え切れずに、ヒカルはぽつりとこぼした。
「……忘れたかったんだ。」
思い出した。そうだ。俺は忘れたかったんだ。
俺が佐為を守れなかった事を。佐為が俺を置いていってしまったことを。俺が佐為を引き止められ
なかった事を。冷たく冷え切ってもう動かなくなってしまった佐為なんて、俺の名を呼んでくれない
佐為なんて、俺の呼び声に応えてくれない佐為なんて、忘れてしまいたかった。たった一度、佐為
に愛された事も、あの熱い身体を全身で受け止めたことも、たった一度でもう二度と得られないの
だとわかったから、それならいっそ忘れてしまいたかった。
全部、全部、俺は忘れてしまいたかったんだ。
そして、忘れたかったという事さえ、俺は忘れていられたのに、どうして思い出してしまったんだ。
どうして。
何のために。
思い出さなければよかったのに。思い出す必要なんかなかったのに。


(28)
「忘れたかったんだ。忘れたいんだ!忘れちまいたいんだよ!!なにもかも!!」
自棄のように叫ぶ自分の声に、彼の周囲の空気がゆらりと揺らめくような気がした。
黒い瞳に炎が宿りヒカルを真っ直ぐに見据える。ヒカルはその炎を恐れた。
「そうやって、君は逃げようというのか、逃げられるとでも思っているのか。
そうやって自棄になって堕ちて行けば彼を失った苦しみを忘れられるのか。
そうして今は君は苦しんでなどといないと言えるのか。忘れられたと言えるのか。」
変わらぬ静かな口調で諭すように言うアキラに、ヒカルは怒鳴り返した。
「ほっとけよ!!大きなお世話だ!!」
「僕は彼に頼まれたんだ。君の事を。だから君をこのまま放っておくつもりなんかない。」
けれどアキラは冷静に返す。その冷静さがヒカルの苛立ちを呼んだ。
「おまえなんかに、何がわかるよ!?」
「ああ、僕にはわからない。君の痛みも、苦しみも。
だからと言って、わからないから放っておける訳がない。
君がそれで幸せだというのなら放っておくよ。でも君は幸せそうには見えない。」
「幸せだって?なにふざけた事言ってんだよ?
佐為がいないのに、俺が幸せなわけないじゃないか。佐為がいないのに、俺が幸せになれるわけ
ないじゃないか。なんだよ、それとも、佐為においてかれた俺を、おまえが幸せにできるとでも思っ
てんのかよ!?ふざけんなっ!!」
「それなら、忘れる事が君にとっての救いだとでも言うのか。
忘れてしまっていいのか。彼を失った事だけでなく、彼と過ごした日々までも、忘れたいのか。
彼を想う君の心も、君を想う彼の心も、全て忘れてしまっていいのか。失ってしまっていいのか。」



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