日記 241 - 245


(241)
 「だって…だって…携帯は新しいの買った…塔矢が選んでくれたんだ…」
ヒカルが伊角に、真新しい携帯電話を見せた。
「か………鍵だって…ちゃんと新しいヤツもらったし……」
「リュック…リュックも……誕生日にくれるって……塔矢が……」
ヒカルはとうとう泣いてしまった。しゃくり上げながら、伊角に「捨ててくれ」と、懇願した。
 ヒカルのその姿に、どうしようもなく哀情を催し、その柔らかい髪に触れようと、手を伸ばした。その瞬間、「ヒカルに触るな!」と、鋭い声が、伊角を制した。
 その声の方に振り向くと、アキラが今にも喰い殺さんばかりに伊角を睨み付けていた。
「………アキラ…」
ヒカルも茫然として、アキラを見ている。
 アキラが自分を剣呑な表情で見ていることを知っていながら、伊角はヒカルに暫し見とれた。
涙を溜めた大きな瞳や薄く開けられた艶やかなピンク色の唇。細く整った眉の上に、明るい
金色の前髪が微かに掛かり、その微妙な色合いが白い顔を彩った。息をすることも忘れたように、
ただその愛らしさを見つめ続けた。

 「どうして、あなたがここにいるんですか!?」
険のある声に、現実に引き戻された。
「進藤に何をしたんです。」
 アキラは、座っている伊角を上から、冷たい目で見下ろしている。ここが、喫茶店でなければ、
彼は自分に掴みかかっていたのではないだろうか?もちろん今でも、十分注目の的ではあるが………
和谷の一件以来、彼が自分に対していい感情を持っていないだろうと予想していた。直接の
関わりはないものの、ヒカルを傷つけた和谷と親しい自分を警戒しているだろうと思ってはいた。が、実際こんな風に接せられると酷くいたたまれない気持ちになる。ヒカルを
心配しているのは自分も同じだ。
「何をと言われても…」
返答に困ってしまう。自分は特に何をしたわけでもない。こんな使いは自分だってしたくなかったのだ。
でも…………


(242)
 「伊角さんは悪くないよ!」

 伊角が口を開こうとしたとき、ヒカルが二人の間に割って入った。テーブルの向こう側から、
手を伸ばし、アキラの服を引っ張り、自分の方へ引き寄せた。
「だけど………!」
「伊角さんは悪くない…オレが声を掛けたんだ…」
―――――それで、オレが勝手に泣いたんだ……
ヒカルは小さく呟いて、まだ涙が乾いていない小さな顔に無理矢理笑みを乗せた。

 「伊角さん…オレのこと知ってんだ………」
「え?いや…オレは…」
狼狽えて、言葉に詰まった。ヒカルは、そんな自分を見てまた笑う。綺麗すぎる笑顔が胸に
痛い。
「これを届けに来たってことは、そう言う事だよね…………」
「ちがう……!ただ、頼まれただけで……」
ウソが下手だよね……伊角さん優しいなあ……………消えそうな声なのに、伊角の耳には
ハッキリと届いた。
「……………」
何も言えなかった。

 ヒカルは俯いて、テーブルの上で組んでいる自分の手を見つめていた。小刻みに震える
それがヒカルの心情を表している。
「――――――伊角さん……オレ……アイツのこと怖い………」
あの時のことを思い出すと身体が震えて、息が出来ない―ヒカルは自分の身体を抱きしめた。
「怖くて………思い出したくない………思い出させないで……頼むから……」
顔を伏せて、両手で耳を塞ぐヒカルの肩に、アキラが手を掛けた。労るように、そっと背中をさすり、
耳元で何かを囁いている。


(243)
 伊角は黙ってヒカル達を見ていた。入り込めない二人の絆に、安堵と寂しさが交互に去来する。
「わかった………これはオレが処分しておくから………」
「………ありがとう…」
 アキラがヒカルを支えながら、立ち上がらせた。「ゴメンね」と伊角に謝り、立ち去ろうと
背中を向け、歩きかけたその足がふと止まった。
 「伊角さん………」
「何?」と振り仰いだ伊角に、ヒカルが躊躇いながら問いかけた。
「あの……預かったのこれだけだった?」
「………?」
「………花はなかった?青紫の花の鉢植え………」
少し考えてから、ああと思い当たった。
「――リンドウのことか?アレも進藤の?………とってこようか?」
ヒカルは、 すぐに返事をしなかった。暫く黙ったまま、伊角とその側に置かれたリュックへと
順番に視線を移し、それから静かに首を振った。
「ううん………大事にしてくれているんだったら、いいや………」

 「進藤…」
アキラがヒカルを促した。その時、一瞬伊角と目があった。 アキラは、軽く会釈をした。再び、
顔を上げたとき、彼の全身を包んでいた棘はもうなかった。

 「“ヒカル”…“アキラ”………」
二人きりのときは、あんな風に呼び合っているのだろうか………
「あきらめた方が懸命なんだろうな…」
自分も彼も………伊角は薄まってしまったコーヒーを飲み干した。


(244)
 「ゴメンよ………」
店を出るなり、アキラに謝られ、ヒカルは驚いた。
「え?え?何で、オマエが謝るの?」
「ボクが待ち合わせ場所変えたから………」
そんなことを一々気にするのはおかしいと思う。伊角に会ったのは偶然だし、声をかけたのは
自分だ。それに、伊角は何も悪いことをしていないし、アキラだって………。
「ヘンだよ…そんなの…」
「…………ゴメン…」
 だから、どうして謝るんだ―と、大声で怒鳴りたい。アキラの心配そうな顔を見るのは、
キライではない。むしろ好きだ。
 アキラの部屋に泊まった夜、彼は眠っている自分の顔を心配そうに何度も覗き込んでいる。
そのことに、ヒカルはちゃんと気が付いていた。それが嬉しくて、とても幸せな気分だった。
でも、今はその顔が堪らなく憎らしい。
「オレ、オマエのそんな顔大キライ!」
アキラが困ったような顔をする。言いたいのこういう事ではなく………でも、どう言えば
いいのかわからない。憎まれ口を叩く自分にイライラする。何より、彼にそんな顔をさせるのは
自分なのだと思うと情けなくて、涙が出る。
 伊角の前でも簡単に泣いてしまったし………要するに、ヒカルは、アキラに八つ当たりしているのだ。
自覚はしているのだが、感情が抑えられない。


(245)
 漸く元気になったとはいえ、ヒカルの情緒はまだ少し不安定だった。突然泣いたり、不機嫌になったり、
かと思えば酷く陽気に振る舞って見せた。アキラがそんなヒカルを気遣えば気遣うほど、
彼は不機嫌になる。ヒカルが自分の感情を持て余しているのがわかるから、アキラは以前のように
遠慮なしには怒れない。

 「………………ゴメン…」
ヒカルが蚊が鳴くような小さな声で呟いた。小さな小さな謝罪の言葉。俯いた白い横顔を
前髪が隠してしまっている。
「………オレ……ヘン………ずっと…ヘンなんだ…………」
それだけ言って、ヒカルは黙ってしまった。

 「――――海に行こうか………」
ヒカルがゆっくりと顔を上げた。
「え?今から?碁会所に行くんじゃないの?」
「碁会所はいつも行ってるし。」
「でも、でも、今から行くと夜になるよ?泳げないし、帰ってこられないよ?」
ヒカルはすっかり狼狽えていた。アキラの突飛な提案に目を丸くしている。
「いいよ。泳げなくても…帰れなかったら泊まればいいし。」
「泊まる?泊まるって……夏休みだぞ!もう終わりだけど…いきなり行っても、宿なんかとれネエよ!?」
 アキラは混乱して喚くヒカルの右手首を掴んで、歩き始めた。泳ぐ泳がないはどうでもよかった。
もともとヒカルの具合を見て、いつか行ければいいと考えていたのだ。その時は、たぶん秋か…
もしかすると冬になっていたかもしれない。ただ、少しでもヒカルの気分が晴れればと、
それだけ願った。



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