日記 244 - 246
(244)
「ゴメンよ………」
店を出るなり、アキラに謝られ、ヒカルは驚いた。
「え?え?何で、オマエが謝るの?」
「ボクが待ち合わせ場所変えたから………」
そんなことを一々気にするのはおかしいと思う。伊角に会ったのは偶然だし、声をかけたのは
自分だ。それに、伊角は何も悪いことをしていないし、アキラだって………。
「ヘンだよ…そんなの…」
「…………ゴメン…」
だから、どうして謝るんだ―と、大声で怒鳴りたい。アキラの心配そうな顔を見るのは、
キライではない。むしろ好きだ。
アキラの部屋に泊まった夜、彼は眠っている自分の顔を心配そうに何度も覗き込んでいる。
そのことに、ヒカルはちゃんと気が付いていた。それが嬉しくて、とても幸せな気分だった。
でも、今はその顔が堪らなく憎らしい。
「オレ、オマエのそんな顔大キライ!」
アキラが困ったような顔をする。言いたいのこういう事ではなく………でも、どう言えば
いいのかわからない。憎まれ口を叩く自分にイライラする。何より、彼にそんな顔をさせるのは
自分なのだと思うと情けなくて、涙が出る。
伊角の前でも簡単に泣いてしまったし………要するに、ヒカルは、アキラに八つ当たりしているのだ。
自覚はしているのだが、感情が抑えられない。
(245)
漸く元気になったとはいえ、ヒカルの情緒はまだ少し不安定だった。突然泣いたり、不機嫌になったり、
かと思えば酷く陽気に振る舞って見せた。アキラがそんなヒカルを気遣えば気遣うほど、
彼は不機嫌になる。ヒカルが自分の感情を持て余しているのがわかるから、アキラは以前のように
遠慮なしには怒れない。
「………………ゴメン…」
ヒカルが蚊が鳴くような小さな声で呟いた。小さな小さな謝罪の言葉。俯いた白い横顔を
前髪が隠してしまっている。
「………オレ……ヘン………ずっと…ヘンなんだ…………」
それだけ言って、ヒカルは黙ってしまった。
「――――海に行こうか………」
ヒカルがゆっくりと顔を上げた。
「え?今から?碁会所に行くんじゃないの?」
「碁会所はいつも行ってるし。」
「でも、でも、今から行くと夜になるよ?泳げないし、帰ってこられないよ?」
ヒカルはすっかり狼狽えていた。アキラの突飛な提案に目を丸くしている。
「いいよ。泳げなくても…帰れなかったら泊まればいいし。」
「泊まる?泊まるって……夏休みだぞ!もう終わりだけど…いきなり行っても、宿なんかとれネエよ!?」
アキラは混乱して喚くヒカルの右手首を掴んで、歩き始めた。泳ぐ泳がないはどうでもよかった。
もともとヒカルの具合を見て、いつか行ければいいと考えていたのだ。その時は、たぶん秋か…
もしかすると冬になっていたかもしれない。ただ、少しでもヒカルの気分が晴れればと、
それだけ願った。
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電車をいくつも乗り継いで、漸く目的の場所に到着したときには、もう、日が暮れかかっていた。
「ほらぁ…だから、言ったじゃん…」
うんざりしたようにヒカルが溜息を吐いた。よほど疲れているらしく、砂浜にぺたりと座り込んでしまった。
アキラは黙って辺りを見回した。なるほど、もう人影はまばらで、いるのは寄り添いながら、
ロマンティックな海辺の夕暮れを語るカップルか花火の準備をしているグループぐらいしか
いない。だけど、風は優しく髪を梳いていき、潮の香りが身体の中を通り抜けていく。
アキラもヒカルの隣に座った。両手を後ろについて、身体をやや後ろに倒す。二人とも
黙ったまま、空の移ろいを見ていた。茜色から、紫…そして濃紺へと変わっていく様は
言葉に出来ないほど美しかった。暫くして、闇の中にボンヤリと炎が浮かび上がり、そこかしこで
華やかな黄や赤が爆ぜるのが見えた。
「…………病気のときってみんな優しいよな…」
ヒカルがポツリと言った。アキラは黙って続きを待った。
「風邪ひいて熱出すとさ…お母さんがオレの好きなものをいっぱい作ってくれるわけ…
お父さんもオレの欲しかったおもちゃおみやげに買ってくれたりして…」
ヒカルは砂を弄び、手の隙間から落としてはまた拾い上げた。
「でも、風邪が治ると、またいつも通りで……嫌いなもの残して怒られたり……」
近くにいてもヒカルの表情はよく見えない。だが、口調は穏やかで優しかった。
「そんで、オレ、つまらなくて…ずっと、病気のままでいればよかったって………」
そこで、ヒカルは話すのをやめてしまった。沈黙が二人を包んだ。アキラは何も言わない。
ヒカルの話はまだ終わっていないと思った。
「……………今、みんな優しいだろ……?オレが心配かけたせいだとは、わかっているんだけど……」
ヒカルは立てていた自分の膝に顔埋めた。
「オレはもう大丈夫だと思っていたんだけど………みんなが優しいから…………」
「………………やっぱ……まだ…ダメなのかな…って……」
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