平安幻想異聞録-異聞-<外伝> 25 - 26
(25)
あかりはそれだけで分かったように、ヒカルに言った。
「歌はいいから」
男女が寝所を共にした後は、男がその想い人に和歌を送るのが慣わし。出来れば、
その日の朝のうち、早ければ早いほどいい。反対に遅くなるのは失礼に当たる。その
夜から三日しても歌が来なかったからと、絶望して出家してしまう姫君がいるほどに。
「ヒカルにそんなの期待してないよ。白紙で送ってくれればそれでいいから」
まだ日の明ける前の薄暗がりで、あかりが笑った気配が伝わってきた。ヒカルも笑う。
きっとこちらの気配も、向こうに伝わっただろう。
東の空が白くなり、青く透明に染まった朝の空気の中を、ヒカルは帰路につく。
家に帰り着いてから、出来るだけ綺麗な料紙を厨子棚の奥から探しだし、白紙のまま
折ると、馬の世話に来ていた使用人を捕まえて、帰りに藤崎の家にそれを届けてくれる
ように頼む。帰り道で手折ってきた白い野菊を一輪添えて。
そして、その朝。それと入れ違いに近衛の家に一通の書状が届いた。
衛門府から。
伊角信輔の警護を任じる辞令であった。
(26)
昼過ぎに伊角の屋敷に現れた近衛ヒカルは、きちんとした正装をしていた。
浅葱の袍に、飾り太刀。
ちょうど腰のくびれた辺りにやなぐいを負ったその立ち姿が、なんとも色っぽい
気がして、伊角は牛車の中から見惚れた。
「さすがに、伊角さんの警護は初めてだからね。いつもの格好で行こうとしたら、
最初ぐらいちゃんとして行けって、じいちゃんに怒られちゃったよ」
そう言って、ヒカルが笑顔を見せる。
話をきくと、初めて藤原佐為の警護に行った時はその藤原佐為がまだ無位無官だった
から、最初から身軽な狩衣姿だったらしい。
そして、その話をしてから伊角は少し後悔する。
佐為の名前を出すときに、ヒカルが苦しそうな顔をしたからだ。
しかし、それを口に出して謝ったりしたらさらにヒカルを傷付ける気がして、その
まま黙っていた。
牛車で内裏へと進む道すがら、ヒカルは他の随身達とともに徒歩で伊角に付き従う。
行き帰りの警護を固める随身達は、伊角の父の代からのおかかえの衛士が殆どで、
平均年齢は三十代から四十代。その中で、若いヒカルの姿はいやがおうにも目立った。
内裏に辿り着くと随身達は下がり、伊角は近衛ヒカルだけを脇に付き従えて殿上に昇る。
朝から、まさに夢にまで見た近衛ヒカルを傍に置いていることに、意味もなく浮かれて
いた伊角だったが、そこに来て自分のあさはかさを心底呪うことになった。
いつも自分をとりまく空気と、何かが違う。
その原因が近衛ヒカルであることはすぐにわかった。
あいさつをする貴族達の、あるいは女房達の自分に向けられる視線は、普段と変わ
らぬ、地位あるものに向けられる敬意に満ちたものなのに、後ろの若い武官を目に
したとたんに、その意味が変わる。
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