失楽園 25 - 27


(25)

「先生もオレンジジュース飲むの?」
 グラスをテーブルに置いたあと、思い出したようにヒカルが顔を上げた。
「いや…。彼が飲むだろうと思って」
 二人の間に、沈黙が落ちる。今まで喋っていたのはこの沈黙を避けるためだったのかと
思わずにいられないような沈黙だった。
「……彼、ね」
 ヒカルはぼそりと繰り返し、まだ栓を開けられていないトマトジュースにしか見えない
真っ赤な液体の入ったオレンジジュースのボトルを見遣る。
 緒方がこれを買い置いているのはたまたまだったのか、それとも『いつかあるかもしれ
ないアキラの訪問』に備えてだったのか、そう信じたい自分の希望を満たすためだったのか。
 ヒカルには判らないでいる。そして、ヒカルが見ているものを無表情で眺めている緒方も
その真意を解らないでいるに違いなかった。
「緒方先生…アイツは?」
「――シャワーを浴びてる」
「そっか」
 緒方とアキラが今まで寝ていたことは今更疑いようのない事実だった。緒方の少し乱れた
髪や、スラックスの皺や匂いがそう知らしめている。
 アキラを再び捕らえたことを、ヒカルに無言のうちに見せ付けている。
 自分でアキラの手を拒んだはずなのに――ヒカルはそれらを複雑な思いで見ていた。


(26)

 喉の渇きは未だ収まらないでいる。
 赤いオレンジジュースを飲みたいと言ったら、緒方はどうするだろう。勿論ここに持ってきてく
れているということは、自分が飲んでもいいということなのだろうが、それは塔矢のために取って
おくべきものなのかもしれない。緒方の塔矢へのメッセージが隠されているかもしれない。
 ヒカルは纏まらない頭で色々なことを目まぐるしく考える。取り留めのないことを考えるのは
小さいころから得意ではなかったが、偶には考えなければならないこともある。
 アイツがいなくなったときだってオレはたくさん考えた――そして折り合いをつけることができた。
 たくさん考えて、自分の中で納得させて。その繰り返しが人生というヤツかもしれない。
「ねえ先生」
 ヒカルは隣にどかりと腰を下ろした緒方を見上げた。日本人離れした彫像のような横顔を緒方は
持っている。確かにカッコいいのは認めるが、どことなく爬虫類を思わせる目は好きになれない。
 それでも、緒方はヒカルの窮地を助けてくれた。初対面のときはやたらと大きくて怖いイメージ
しかなかったのに、ヒカルが緒方に対して臆することがなかったのは、院生試験を受けられるよう
口添えしてくれた緒方を”思ったほど冷たい人ではないのだ”と認識したからなのかもしれない。
「――なんだ」
 いつも自信に満ち溢れ、滑舌がハッキリしている緒方には珍しく、疲れきったような溜息交じり
の応えがあった。ヒカルは気後れしたようにテーブルのグラスを手に取る。待っていても緒方はお
代わりの水を注いでくれそうになかったから、ヒカルは氷が溶けたあとの水を一口飲んだ。
「あのさ、先生さぁ…」
「なんだと聞いているだろう。アキラくんに聞かれたくない話なら、さっさと終わらせろ」
 だらしのない喋り方は好かん。緒方は吐き捨てるように呟くと、足を大きく組み、膝の上で頬杖
を付いた。顎を上げ、上からヒカルを見下ろすように視線を投げてくる。


(27)

 緒方に至近距離で睨まれたのは初めてだった。
「さぁ、オマエが馬鹿じゃないんなら簡潔に言ってみろ。何が言いたい?」
 与えられる視線のその冷たさにヒカルは唾を飲み込んだ。
「――っ、じゃあ言うけど、先生さ、塔矢のこと、すき、なんだろ?」
 好きという単語を口にすることにもヒカルは慣れていない。つっかえつっかえ紡いだ言葉だったが、
蔑むような視線を放つだけだった緒方の眼は虚を突かれたように見開かれた。
「自分じゃ隠してるつもりなのかもしれないけど、オレには解るよ」
「好き――か…」
「何で笑うんだよ」
 ヒカルは頬を膨らませた。俯いた緒方が突然笑い出したからだった。
 緒方は一頻り肩を揺らして笑った後、仮の話だがと前置きして顔を上げた。
「オマエの手元にオモチャがあるとする。ずっと欲しくて、欲しくて…ようやく手に入れたオモチャ
だ。だが、どんなに大事にしていてもやがて飽きる。それは避けられようがないし仕方がない。
――オマエならどうする?」
 仮の話だと言われても、緒方が例える『オモチャ』が何を指すのか、判らないわけではなかった。
だが、ヒカルはその問いに上手く答える術を持たないでいる。
「どうする……っていったって、いつか飽きたら仕方ないじゃん」
 飽きることを認識する前に、その存在を忘れてしまうのが普通だ。そもそも玩具に飽きたからと
いって一々悩んだこともヒカルにはなかった。
「オレは、飽きていつのまにか失くしてしまう前に必ず壊した。オレの手でだ」
 ヒカルは緒方の手を見つめた。いかにも棋士らしい整った爪先を持った指は、しかし節は太く
手の甲には幾筋もの血管が浮かんでいる。手だけではない。鍛えた身体なのはその服の上からでも
容易に判っていた。
「まさか、塔矢も…?」
「……彼もいつかは、セックスを覚えるだろう。彼がいつか誰かの手に触れられ、そして汚される
しかないのだとしたら――、彼を汚すのはオレでありたかった」



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