無題 第2部 26
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ふと、顔をあげて、アキラはあたりを見回した。今、だれかの声が―歌声が、聞こえたような気
がした。いぶかしげな表情のアキラに、穏やかな声で緒方が応えた。
「ああ、これは…」
びくっとアキラの身体が強ばって、コーヒーカップを持つ手に力が入る。
「ピアニストの声だよ。ピアノに合わせて唄っているんだ。」
音楽が高まりはしても、決して激しくなり過ぎはしないそのピアノの音が、ささくれだったアキラ
の心を、ゆるやかに溶かしていった。知らぬまに、アキラの目に涙が浮かんでくる。その涙は
見る間にあふれ出て頬を伝い、細い顎先からぽとりとこぼれた。
「…アキラ…」
低い、静かな声で、緒方が彼の名を呼ぶ。その声に後押しされたように、涙はあとからあとへと
流れ出て、ぱたぱたと音を立てて零れ落ちていった。
「もう二度とくるもんか、って思ってた。忘れてしまいたいと、思ってた。なのに…」
なのに…、その後、何と続けるつもりだったのだろう。
なのに、忘れられなかった、と?なのに、ここしか来る所はなかった、と?他に迎え入れてくれる
場所を知らなかった、と?
※グレン・グールド演奏/ブラームス 間奏曲集
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