裏階段 三谷編 26 - 28
(26)
こちらも息をつき、汗が伝わり落ちる前髪を掻きあげて上体を起こし、暫くの間彼を見下ろしていた。
動かなくなった彼の中で動き続けた。
長くかかった道のりを終えて衣服を脱ぎ、彼を抱き上げてバスルームに入る。
柔らかな水量で彼の体を洗い流す。
彼は一瞬目を開けたが眠そうにまた閉じた。
彼にはこうなることが、自分の身に何が与えられるか分かっていたはずである。
碁会所のあるビルを歩道から見上げ、偶然を装って進藤に会える事をただ期待していた
彼を見かけて声をかけた。
「時間はあるか」と尋ねるとただ黙って頷いた。
車の助手席に座る時、一瞬躊躇があったようにも思えた。無理強いはするつもりはなかった。
彼は暫くこちらを睨むように見つめていたが小さくため息をつくと音もなくシートに滑り込んだ。
車が都心を離れ、ビル郡が遠のく間も彼はただ黙って窓の外を見つめていた。
こうして一時的に大人の男の所有物となって運ばれる事を何度か経験している様子だった。
そうして山あいの、ビジネスにもリゾートにも利用されているこのホテルに入った。
ツインの部屋をとる。だが泊まるのは自分一人だけだ。表向きは。
連れ合いは裏階段でこの部屋に入る。ホテル側の人間の目に触れる事なく。
もしオレがここで彼を殺して裏階段で車に運んだとしても、彼がオレを殺して裏階段で逃げたとしても、
ホテル側の人間は彼の存在は知らなかった事として語るだけだ。そういう暗黙のルールの場所だった。
たいした娯楽施設も観光名所も持たない場所で客を得るとはそういう話だ。
彼はどんな気持ちで階段を上がり、そして降りていくのだろう。
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愛情とは到底呼べないかたちのSEXしか与えられない。得る事が出来ない。
それ以上のものを欲しいと思わない。
伯父がオレの体に遺して行ったものだ。逆を言えば、微塵の愛情の欠片も抱かない相手でも抱けた。
自分が到達感を得られるかどうかは別にして。
ないものをねだり試すように、空虚な結果しか得られないと分かっていても止められないものがある。
「先生」と同じ屋根の下に居ながらも、むしろその事によって塞がらず染みる傷痕だった。
碁の道さえ外れなければ「先生」は何も言わなかった。
初めて受けたプロ試験に合格し、高校を卒業するまでの間に何人かの男女と関係を持った。
何度かの内弟子の申し入れをしながら断られた父子が言わなくて良い話を「先生」の耳に
入れようとした。
品性に欠くものを傍に置いておいて良いものかと。
「先生」は何も知らなかった訳ではない。
「打ち筋を見ればその人なりがわかる。私は…君の碁が好きだよ。」
早朝の光の中で碁盤を挟み語りかけて来る「先生」の口調が変わる事はなかった。
「君の伯父さんと打つ度に何度も問いかけられた。碁は、命だと。
石は、意志であると。お前の石は生きているか。石がこうしたいという声を、お前は聞けるかと。」
ただひたむきに自分と周りが打つ碁の明日のみを楽しみにする。
碁以外のものを「先生」には求めてはならなかった。清いが悲しい。そんな習慣が続いていた。
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シャワーの水温を水に変えた。ビクリと彼の体が跳ね上がって恨めしそうにこちらを
睨み付けて来る。
「寝てると置いて行くぞ」
冷たい水を供に浴びる位置で彼に口付ける。愛情がない事を確かめる温度のないキスだ。
「…自分の碁の明日…」
裏木戸から庭に入り、その頃から習慣となっていた煙草を吹かしながら独り言のように口にして
何だかおかしくなって口元が弛んだ。
その時突然茂みの向こうから水しぶきがあがって叩き付けられるようにシャツを濡らされた。
「きゃあっ、ごめんなさい!」
庭仕事には似つかわしくない真っ白なつばの広い帽子に品の良いワンピースの女性が
勢い良く水の吹き出るホースの扱いに苦慮していた。
「こっちによこしてください」
御丁寧にホースの口を向けられ、ズボンまで濡らすはめになって壊れかかっていた庭の隅の
蛇口に辿り着いた。
「庭に水を巻く時はそこの窓からトイレの手洗い場にホースをつなぐんです。」
うんざりした表情で説明するとその女性は少し反省したように肩をすぼめたが、
水浸しのこちらの格好に我慢出来ず吹き出した。
「本当にごめんなさい。よけいな事はするものじゃないわね。あなたがセイジ君ね。」
後の明子夫人だった。 [三谷編・終]
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