トーヤアキラの一日 26 - 30
(26)
アキラはさっきまでとは違って、黒い大きな瞳を見開いて堂々とヒカルを見つめている。
何とか自分の気持ちに偽りがない事を視線で伝えようとしていた。
そんなアキラの目をじっと見ていたヒカルは、自分の気持ちを手繰るように話し出した。
「お前に好きだって言われた時は正直驚いたよ。だけど、お前の話を聞きながら不思議に
思ったんだ・・・・・自分も同じ事思ってたから。・・・・・あの時、碁会所を出て行ってから、
オレもお前に会って碁の話がしたいって、すっごく思ってたんだ。・・・・・だけど、それが
お前を好きだという事にはならなかった。だから、考えてみるってあの時言ったんだよ。
お前の真剣な目を見て、オレもちゃんと考えてみなくちゃって・・・・」
ヒカルの意外な言葉に、アキラは驚きに眼を瞠るばかりで何も口を挟めない。
「そう思ったのに、お前からの連絡は全然無くてさ、もしかして、あの時の言葉は嘘だった
のかも知れない、って思い始めたんだ。しかも二週間前に会った時なんか、オレの顔を見て、
イヤそうにしてたよな!?お前の気持ちを受け入れてみようかな、って思ってたのに!
お前の事を真剣に考えてみようって思ってたのに!会いたいって思ってたのに!!」
アキラは思わずヒカルの手を取って抱き寄せた。ヒカルを強く抱き締めながら、
「ごめん、ごめん、ボクは自分の事しか考えてなかった。あの時も、キミからの連絡が
無いので、嫌われたと思い込んでいたんだ。だから怖くてキミの顔をまともに見ることが
出来なかった。もっと早く連絡するべきだった。ボクが悪いんだ。ごめん、ごめん進藤」
とヒカルを宥める。ヒカルはアキラに抱き締められながら弱々しく非難する。
「そうだよ、お前が全部悪い。全部全部!」
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アキラはヒカルの背中に手を回して、背中のバッグごと抱きかかえていた。ヒカルは手を
ダラリと下げたままアキラに少し寄りかかるようにして黙っていた。
この一ヶ月、ヒカルの手を取って抱き締めたい、と夢にまで見ていた事が現実になって
いる。コートを通して、ヒカルの温もりが伝わってくる。アキラの頬にヒカルの柔らかい
髪が触れて、耳元でヒカルの息遣いを感じる事が出来る。
ほんの少し前までは、こんな瞬間が訪れる事は想像も出来なかったのに、今は現実の
ヒカルを抱き締めている。アキラは、嬉しさで冷え切っていた体中の血液が激しく循環
しているのを感じていた。そして高鳴る鼓動が次の行動を促す。
アキラは両手を移動させてヒカルの肩を両側から掴み、体を少し離した。愛しいヒカルの
顔を覗き込むと、ヒカルは放心したようにアキラを見る。
もう薄暗くなった公園には電灯が点いていた。その光がヒカルの瞳を照らして、キラキラ
輝いて揺らめいている。アキラはそっと顔を近づけてヒカルの唇に唇を重ねた。
唇が重なる瞬間にヒカルが目を閉じるのが見えた。アキラは目を開けたまま、軽く唇に
触れてから、ゆっくり顔を離した。ヒカルは瞑った目を開けてアキラを見詰めて来た。
その潤んだ瞳にアキラは体がゾクッと震えるのがわかる。ヒカルは小さな声で
「トーヤ・・・・・」
と呟き、そのまま口をわずかに開けて、アキラの唇をチラリと見遣る。
アキラは次の瞬間、考える間もなく、激しくヒカルの唇を捕らえていた。腕をヒカルの
コートとバッグの間に入れて、強く抱き締めると、ヒカルもそれに応える形でアキラの
背中に手を回して来た。二つの影が重なって一つになった瞬間だった。
本能の命じるままに、アキラはヒカルの口の中に舌を差し入れてヒカルの舌を捕らえた。
体で気持ちを確かめ合おうとするように、お互いに舌を絡ませながら、より強く抱き締め
合う。だが慣れていないアキラは、呼吸のタイミングがわからずに、すぐに息切れがして
顔を離した。鼻と鼻を合わせながら、お互いに荒い呼吸を整えて初めてのキスの余韻に浸る。
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やがてアキラは顔を小刻みに動かして、鼻をこすり合わせながら舌を出して、ヒカルの唇を
嘗め回し始めた。
「フフ、進藤はレモンの味がして美味しいね」
「バ、バカ。さっきCCレモン飲んだからだよ。・・・塔矢の鼻は冷たいな・・・」
と言ってから、ハッとしたように顔を離してヒカルは聞く
「お前どの位オレを待ってたんだ?手も冷たかったし、体が冷えてるんじゃないのか?」
アキラは首を横に振りながら微笑んで、
「じゃあ、もっと暖めてよ」
と言い、再びヒカルの唇を捕らえる。
今度はゆっくりと味わうように、唇を重ねながら舌先で上唇、下唇、歯列を嘗め回す。
徐々に舌を進入させると、ヒカルが自分の舌を静かにアキラの舌に絡めて来る。
その舌の上下左右、上顎の味を確認する。そして舌を絡ませたまま、角度を何度も変えて
思う存分ヒカルの口腔内を味わい尽くす。
ヒカルの背中に回していた右手を動かしてヒカルの髪に触れた。柔らかい髪をかき回し
ながら頭を押さえ、より深く舌を侵入させると「んっっ」とヒカルの喉が鳴る。
次に絡めたヒカルの舌を思い切り吸い上げると、ヒカルは舌を持って行かれまいとして
顔を離そうとする。それを許さず、頭に当てた手に力を入れ、吸い続ける。アキラの
吸引力は強く、ヒカルは抗い切れずにアキラの口の中に舌を持って行かれた。
ヒカルはアキラの口の中で遠慮がちにチョロチョロと舌を動かしたが、すぐに引っ込めて
しまった。その時に「グチュッ」と言う音がして、二人は顔を離して微笑みあう。
アキラはヒカルの目を食い入るように見詰めて再び言う。
「進藤。キミの事が好きだ」
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アキラはそっと体を離すとヒカルの右手を両手で取って、愛しそうに撫でた。
「フフ、前にキミの右手にこうして触れた時の事を覚えてる?」
「えっ?オレの手に?」
「そう、キミと二回目に会った時だよ。さっきの地下鉄の入り口の前で」
「あっ!」
「あの時と比べると随分大きくなっているけど、柔らかさは変わらないね」
そう言うと、大事な物をいとおしむ様に頬擦りした後、ヒカルの手に口付ける。
手の甲から指先に唇を這わせながら何度も口付けて、最後には人差し指と中指を咥え
込んだ。アキラは軽く目を瞑って、ピチャピチャと音を立てて二本の指を嘗め回す。
舌を動かしながら薄目を開けて、ヒカルのあっけにとられている顔を見ると、さらに
グチョグチョと音をたてて、しゃぶるように夢中で指を吸い始めた。そうして、
気が済むまで指を味わったアキラは、ヒカルの指を口から離すと濡れた指を自分の頬で
拭きながら囁く様にしみじみと言う。
「この指でキミは碁石を打っているんだね・・・」
ヒカルはアキラの顔を見詰めたまま呆然としていた。
アキラはヒカルの手を下ろして、表情を元に戻すと、
「さ、何か暖かいものでも飲もう。この間払いそびれたから、今日はボクが奢るよ」
と言って歩きだす。
「う、うん、そうだな。」
ヒカルもアキラにピッタリと寄り添って歩き出した。
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ポテトを頬張りながら、ヒカルは今日の碁の話に夢中だった。
「その初手天元ってさ、関西棋院の社ってヤツが打って来たんだって!それでさ・・・・・・」
楽しそうに語るヒカルを見て、アキラの心は満たされていた。ヒカルが今、どの程度
自分の事を好きでいてくれるのかは分からなかったが、少なくとも自分の気持ちを受け
入れてくれた事で、この一ヶ月の苦しさが遠い過去の事のように感じられた。
アキラは、一ヶ月前には直視できなかったヒカルの唇を見詰めながら、その味を思い出す。
軽く唇に触れた後に、ヒカルが『トーヤ』と呟いた声と表情を思い出すと、今ここで
もう一度ヒカルの唇に跳びかかり、ヒカルの口の中にあるポテトを味わいたい衝動に
かられる。アキラはヒカルの体の一部を手に入れた事で、自分の中で眠っていた何かが
呼び覚まされたのを感じていた。
───まだ物足りない・・・・・もっともっとキミが欲しい、もっと違うキミを見たい
アイスクリームを冷凍庫にしまうと、アキラは自分の部屋に戻った。
ガラス戸を開けて部屋の空気を入れ替える。中庭から流れ込んでくる空気を胸一杯に
吸い込みながら時計を見ると、9時5分を指していた。
───まだ9時過ぎか・・・・・早く進藤に会いたいな・・・・・
そう思いながら、イスに座る。このイスはアキラがプロになってから自分で買った
オフィスチェアーで、高さが自由に変えられ、背もたれも好きな角度に設定出来て、
肘掛も付いていた。
アキラが使っている机は父の代から使われている物で、イスも今でも十分使えるしっかり
した質の良い物であったが、アキラが成長するに従って、少し窮屈に感じていた。
PCで棋譜整理をしたり語学の勉強をしたりするのに、ゆったり座れるイスが欲しかった
のだ。古いイスは机の横にあって、アキラのバッグ置きになっている。
昨夜の棋譜整理の続きをするためにPCの電源を入れる。
アキラは、起動するのを待ちながら、初めてヒカルがこの部屋でPCを見た時の事を
思い出していた。
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